「クロックタワー」都市伝説|シザーマンの元ネタと実在事件の関係
あのハサミの音が、今でも耳から離れないという人がいる。
ゲームをクリアしたはずなのに、夜中にふと「チョキチョキ」という音が聞こえた気がして目が覚める。それが本当に音だったのか、それとも記憶に焼きついた恐怖が見せた幻なのか、自分でもわからない——そんな話を、プレイヤーたちは今でも語り合っている。
1995年にスーパーファミコンで発売された『クロックタワー』。この作品が生み出した「シザーマン」という存在は、単なるゲームのキャラクターを超えて、日本のホラー文化に深く刻み込まれた。
だが、ここで疑問が浮かぶ。
シザーマンは、本当に「架空の怪物」なのだろうか。
実は、このゲームの背景には実在の事件や映画、そして現実の犯罪心理学まで絡んだ、複雑な「元ネタ」が存在するとも言われている。そして一部のファンや研究者の間では、「あのキャラクターはあの事件がモデルでは」という議論が今でも続いている。
怖いとわかっていながら、読み進めてしまう。それがクロックタワーという都市伝説の本当の恐ろしさかもしれない。
この記事では、シザーマンという存在の「起源」を丁寧にたどっていく。映画から民話、犯罪心理学、そして30年以上語り継がれる記憶の不思議まで。わかっていることと、今でも謎のままのことを、できるだけ正直に書いていきたいと思う。
「クロックタワー」とシザーマンとは何か
まず基本的なことから確認しておこう。
『クロックタワー』は1995年、ヒューマン株式会社が発売したスーパーファミコン用のホラーゲームだ。開発を主導したのはゲームデザイナーの河野一二三(こうのひふみ)氏。当時としては非常に珍しい、「逃げるだけ」という逃走型サバイバルホラーを作り上げた。
プレイヤーが操作するのは、孤児院に引き取られた少女ジェニファー。彼女が迷い込んだのは、巨大な時計塔を持つ洋館「バリエ館」だった。そこで彼女を追いかけてくる存在が「シザーマン」——巨大なハサミを持ち、奇妙な笑い声を上げながら迫ってくる人型の怪物だ。
このゲームの最大の特徴は、プレイヤーに「戦う手段がない」という点だ。できるのは逃げること、隠れること、そして細い可能性に賭けて生き延びることだけ。シザーマンが近づいてくるとBGMが変わり、恐怖を示す「パニックメーター」が上昇する。メーターが限界を超えると、ジェニファーは足がもつれてうまく動けなくなる。
この「恐怖で身体が言うことを聞かなくなる」という設計が、プレイヤーにリアルな恐怖体験をさせた。ゲームでありながら、本当に怖いと感じてしまうような仕掛けだ。
シザーマンの見た目も強烈だった。小柄だが異様なほどの力を持ち、巨大なハサミを引きずりながら追いかけてくる。顔には歪んだ笑みを浮かべ、ときに「ジェニファー……」と名前を呼びながら迫ってくる場面もある。
発売当時、このゲームは「怖すぎてクリアできない」と話題になった。インターネットがまだ普及していない時代に、口コミだけで広がった「最恐ゲーム」だ。そしてその噂は30年以上経った今でも、語り継がれている。
ゲームの操作自体は今の目線で見るとシンプルだ。カーソルを画面内に動かしてクリックするポイント&クリック方式。でも、その「シンプルさ」の中に、プレイヤーを追い詰める仕掛けがいくつも埋め込まれていた。
たとえば、ゲーム内の選択肢によって物語の分岐が生まれ、複数のエンディングが存在する。どのエンディングにたどり着けるかは、プレイヤーの行動次第だ。「正解の選択肢」が最初からはわからないため、試行錯誤する中でシザーマンに何度も追いかけられることになる。
繰り返す恐怖体験——それがトラウマを形成していく。クロックタワーはそういう構造を持ったゲームだった。
起源・発祥・歴史的背景——シザーマンの元ネタを追う
クロックタワーを語るとき、外せない映画がある。
ダリオ・アルジェント監督の『フェノミナ』(1985年)だ。
イタリアのホラー映画界を代表するアルジェント監督は、「ジャーロ」と呼ばれる独特のスタイルを確立した人物だ。ジャーロとはイタリア語で「黄色」を意味し、鮮やかな色彩と残酷な描写、複雑なミステリーを組み合わせたホラーのサブジャンルを指す。
『フェノミナ』の主人公は、スイスの寄宿学校に転校してきたアメリカ人少女ジェニファー。彼女は昆虫と会話できるという不思議な能力を持っており、近隣で起きている少女連続殺人事件に巻き込まれていく。
気づいただろうか。主人公の名前が「ジェニファー」だ。そしてクロックタワーの主人公も「ジェニファー」。これは偶然ではなく、開発者の河野氏が公に認めている『フェノミナ』へのオマージュだとされている。
さらに『フェノミナ』には、知的障害を持つ人物が凶器を振り回して追いかけてくるという場面がある。この「知的に通常とは異なる存在が、刃物を持って少女を追い詰める」という構図が、シザーマンのベースになったという説は根強い。
アルジェント監督の作品には、ほかにも注目すべき要素がある。『サスペリア』(1977年)では魔女が支配する舞踊学校が舞台になっており、「外見は美しいが内側に恐怖が潜む場所」というモチーフが繰り返される。クロックタワーの「孤児院」「洋館」という設定も、このアルジェント的な「閉ざされた空間の恐怖」の流れを汲んでいる。
だが、元ネタはそれだけではないとも言われている。
一部の研究者やホラーゲームマニアの間では、「シザーマンのキャラクター造形は実在の連続犯罪者からも影響を受けているのではないか」という議論が存在する。特に注目されるのが、20世紀初頭のヨーロッパで語り継がれる「刃物を持った追跡者」というモチーフだ。
ドイツの民間説話には「シュレッキュラー(Schrecklicher)」と呼ばれる概念がある。これは「恐ろしい者」という意味で、子供を脅かすために語られる怪物的な人物像だ。ハサミや刃物を持って悪い子供を「切り取る」という描写が、中世ヨーロッパの躾の説話に登場することがある。
また、グリム童話のもとになったドイツの話の中には、爪や指を切り落とす「指切り小僧」のような恐ろしい存在が登場する。これらの「刃物を持つ怪物」というイメージが、長い時間をかけて積み重なり、シザーマンという形に結晶したという見方もある。
特に有名なのが、ハインリヒ・ホフマンの絵本『もじゃもじゃペーター(Struwwelpeter)』(1845年)に登場する「大きなニッパーのチョキチョキ屋さん(Der große Nikolas)」だ。親指をしゃぶる子供のところに現れ、大きなハサミで両親指を切り落とすという話は、ドイツを中心に200年近く語り継がれてきた。このキャラクターのイメージと、シザーマンを結びつけて語る論考は複数存在する。
加えて、クロックタワーの舞台設定——ヨーロッパ風の古い館、時計塔、孤児院——には、実在する場所のモデルがあるとも言われている。アルジェント監督の作品群が舞台にしたイタリア北部の雰囲気や、スイスの山間部の村の空気感が、ゲームの世界観の基盤になっているという説だ。
もう一つ、見過ごせない背景がある。
クロックタワーが発売された1990年代前半の日本は、ちょうど「猟奇犯罪への社会的関心」が高まっていた時期と重なる。1988年から89年にかけて起きた連続幼女誘拐殺人事件は、日本社会に深い傷を残した。犯人の宮崎勤死刑囚は、大量のホラービデオを所有していたことが報じられ、オカルト・ホラーと現実の犯罪が結びつけて語られる文化的な文脈が生まれた時期でもある。
クロックタワーはその直後の時代に作られたゲームだ。「追われる恐怖」「逃げ場のない恐怖」というテーマは、当時の社会的な不安感と無関係ではないとも言えるかもしれない。
さらに時代背景として、1990年代前半の日本ではホラー映画の輸入が盛んになり、ビデオレンタル店に並ぶ海外ホラーに若者がアクセスしやすくなっていた。アルジェントやジョン・カーペンター、ウェス・クレイヴンといった海外監督の作品が「知る人ぞ知るカルト的面白さ」として口コミで広まっていた時期だ。ゲームクリエイターたちがそういった作品から強い影響を受けていたことは、当時の証言からも読み取れる。クロックタワーもそのひとつだったと見てよいだろう。
実際の証言・目撃情報・体験談——プレイヤーたちが語る「本当の恐怖」
ゲームとしての恐怖だけでなく、クロックタワーをめぐっては不思議な体験談がいくつも語られてきた。
あるプレイヤー(当時中学生、現在30代の男性・匿名)は、こう語っている。
「夜中にひとりでプレイしていたんですが、シザーマンが出てきた瞬間に急にテレビが消えたんです。電源が落ちたわけじゃなくて、ブラウン管特有のパチっていう音がして。怖くてしばらくそのゲームができなかった。後から考えれば、家の古い電気系統の問題だったんだと思います。でも、あのタイミングは一生忘れられないですね」
また、別の体験談として、1990年代後半の家庭用ゲーム雑誌の投稿欄に寄せられたという話がある。そのプレイヤーは「シザーマンに見つかった瞬間、部屋の外から足音が聞こえてきた」と書いていたという。投稿を読んだ読者の間で「ゲームが現実を呼び寄せた」という噂が広まったとも言われているが、これは当時の怖い話の定番パターンでもあるため、どこまでが事実かは判断が難しい。
インターネット上には、こんな書き込みも残っている(2チャンネル時代の記録として複数のまとめサイトに転載されているもの)。
「クロックタワーをプレイした後から、自分の家の廊下が怖くなった。夜中にトイレに起きると、廊下の端に誰かが立っているような気がして。シザーマンの影響で脳が過敏になってたんだと思うけど、あれは本当に怖かった」
こうした体験談に共通しているのは、「ゲームと現実の境界が曖昧になった」という感覚だ。
心理学的には、これは「過活性化した扁桃体による誤警報」として説明できる。扁桃体は脳の中で恐怖反応を司る部位で、強い恐怖体験の後にしばらく過敏な状態が続くことがある。些細な物音や影が「脅威」として処理されやすくなるため、「シザーマンを見た気がした」「ハサミの音が聞こえた気がした」という体験が起きやすくなるというわけだ。
だが、論理的に説明できるとわかっていても、「夜中に廊下で感じた気配」は消えない。それが人間というものなのだろう。
もう一つ、ゲーム自体の「バグ」にまつわる都市伝説も存在する。スーパーファミコン版のクロックタワーには、特定の条件でシザーマンが出現しないはずの場所に突然現れるというバグが実際に存在した。これが「バグ」ではなく「意図的な隠し要素」だという説や、「開発者が意識的に埋め込んだ恐怖演出だ」という話が一時期広まった。
実際のところは、スーパーファミコンの処理能力の限界によって生じた単純なプログラムのバグだとされているが、「シザーマンはプログラムの隙間から生まれてくる」というイメージが、都市伝説的な広がりを生んだと言えるかもしれない。
また、ゲームの複数のエンディングの中に「最悪の結末」とされるエンディングが存在する。その内容が「あまりにも救いがない」として、クリアした人たちの間でトラウマになったという話は珍しくない。特に、ある特定のルートで迎えるエンディングは「長年クロックタワーの話になると必ず出てくる」と言われるほど、プレイヤーの記憶に焼きついているという。
こんな証言もある。20代後半の女性(匿名)のもので、SNSに投稿されたものをまとめサイトが引用したものだ。
「小学校のとき、お兄ちゃんがやっているのを後ろから見てただけなのに、それから1週間くらい夢に出てきた。ゲームってそういうもんだと思ってたけど、大人になって調べてみたらあの恐怖は設計されたものだったってわかって、余計に怖くなった」
「やっていないのに怖い」「見ていただけで記憶に残る」——これもクロックタワーが持つ恐怖の特殊さを示している。シザーマンの「見た目」と「音」と「動き」は、それだけで人の記憶に刻み込まれる力を持っている。
また、ゲームセンターにクロックタワーの試遊台が置かれていた時期(PlayStation版の発売に合わせた展示)に、試遊中の子供がシザーマンの登場と同時に泣き出したという話もある。スタッフが驚いて対応したが、その子供はしばらく「ハサミの人が来る」と言い続けていたというエピソードだ。親が後日ゲームショップに問い合わせてきたという話は、当時の店員だったという人物の証言として複数の場所に残っている。
科学的・民俗学的考察——なぜシザーマンはここまで恐ろしいのか
シザーマンという存在が、なぜこれほど人の心に刺さるのか。
単に「大きなハサミを持った怪物」だから怖いというわけではないと思う。もっと深いところに、恐怖の根がある。
まず、「刃物への本能的な恐怖」という側面がある。
人間は進化の過程で、鋭い刃物状のものに対して強い警戒反応を持つようになったとされている。爪、牙、刃——これらは古代から生死に直結するものだった。ハサミという武器は、その「刃物への恐怖」をダイレクトに刺激する。しかも普段は日常的な道具であるハサミが、極限まで巨大化して「兵器」になるというギャップが、より不気味さを増幅させる。
認知科学の分野では「不気味の谷(uncanny valley)」という概念がある。ロボット工学の研究者・森政弘が提唱したもので、「人間に似ているが完全には人間ではない存在」に人は強い嫌悪感を覚えるというものだ。シザーマンは人型でありながら、その比率や動作が人間のそれとは微妙にずれている。この「ほぼ人間だが違う」という感覚が、恐怖を深いところで刺激しているとも言える。
次に、「追われる恐怖」という普遍的な恐怖体験だ。
人間は夢の中でも「何かに追われる夢」を見ることがある。これは非常に一般的な夢の類型で、多くの文化圏で報告されている。心理学では、これを日常のストレスや不安が投影されたものとして解釈することが多い。クロックタワーのゲームプレイは、この「追われる夢」と非常に似た構造を持っている。だから、ゲームが終わった後も夢に見やすい——という説は、プレイヤーの証言とも一致している。
民俗学的な観点から見ると、シザーマンは「異形の追跡者」という普遍的なモチーフを持つ存在だと言える。
世界中の神話や伝承には、人間に近いが人間ではない何かが、逃げる人間を追いかけるという物語が繰り返し登場する。日本では「鬼」がその代表だ。ヨーロッパでは狼男や吸血鬼、北欧ではトロールという具合に、文化によって姿は違うが「追いかけてくる異形の存在」というテーマは共通している。
シザーマンはその現代版と言えるかもしれない。古代から人間が抱いてきた「追われる恐怖」が、ゲームというメディアを通じて具体的な姿を与えられた存在——それがシザーマンだという見方もできる。
また、シザーマンが「しゃべる」という点も重要だ。
ジェニファーの名前を呼びかけてくる。笑い声を上げる。コミュニケーションが一方的にとれる「人型の存在」というのは、完全に理解不能な怪物よりも、ある意味でより恐ろしい。「こいつは自分のことを知っている」という感覚、「私を狙っている」という感覚が強まるからだ。
犯罪心理学的には、「被害者を名前で呼ぶ」という行為は支配と恐怖の強化に使われることがある。シザーマンの「ジェニファー……」という呼びかけは、意図的かどうかはわからないが、その恐怖の本質を突いているとも言える。
さらに、シザーマンの「小柄な体格」も恐怖効果に貢献しているという説がある。
巨大なモンスターは確かに怖い。だが、「見た目は人間に近い小柄な存在」が異常な力と凶器を持って追いかけてくるというのは、また別種の恐怖だ。現実の犯罪でも、外見から脅威が読み取れない人物による犯罪は特に恐怖を呼ぶとされている。シザーマンの「見た目と能力のギャップ」は、この点で非常によくできた恐怖設計だとも言える。
音の設計という観点も欠かせない。
クロックタワーのBGMは、シザーマンが近づくにつれて変化する。静寂の中に突然入り込む不協和音、そしてあの「チョキチョキ」という効果音。音楽心理学の研究では、不規則なリズムや予測できない音の変化が、人間の緊張状態を引き上げることが確認されている。映画のホラー演出でも「音」が恐怖の最大の引き金になると言われているが、クロックタワーの開発チームはその事実を直感的に理解していたのではないだろうか。
「見えない恐怖」から「見える恐怖」への移行、そして「音による予告」——この三段階の恐怖演出は、1995年のゲームとしては非常に洗練されていた。今のホラーゲームが当たり前に使う手法の多くが、すでにクロックタワーの中に存在していたとも言えるのだ。
現代における意味——なぜクロックタワーは今でも語り継がれるのか
クロックタワーの最初の作品が発売されてから、すでに30年近くが経っている。
グラフィックは今の基準では古く、スーパーファミコンという時代遅れのハードで動いていた。なのになぜ、今もこのゲームとシザーマンは語られ続けるのか。
一つは、「記憶の刷り込み」の強さだろう。
子供の頃や思春期に体験した強い恐怖は、大人になっても記憶に残りやすい。脳科学的には、強い感情(特に恐怖)を伴う体験は記憶の定着が促進されるとされている。1990年代後半から2000年代前半に子供だった世代が、今まさに30〜40代になっている。彼らがSNSやYouTubeでクロックタワーの記憶を語り、それを聞いた若い世代が興味を持つという連鎖が続いているというわけだ。
もう一つは、「逃げるだけ」というゲームデザインの先見性だ。
2010年代以降、『Amnesia: The Dark Descent』や『Outlast』『バイオハザード7』といった「戦えない恐怖」をテーマにしたホラーゲームが世界的にヒットした。これらのゲームが注目される度に、「元祖はクロックタワーだ」という話が持ち上がる。後世のゲームデザインに影響を与えた作品として、ホラーゲーム史において重要な位置を占めているのだ。
2023年には、クロックタワーシリーズのリブート作品『クロックタワー リサレクション(CLOCK TOWER: Rewind)』の発表が話題になった。過去作品のリマスター版の登場は、「シザーマンの復活」として大きな注目を集めた。この動きを見ても、クロックタワーというIPがいかに強い力を持っているかがわかる。
また、クロックタワーは「実在の犯罪や事件との関連を語りたがる」という人間の心理とも深く結びついている。
人間は、「架空の恐怖」よりも「本当にあったかもしれない恐怖」により強く反応する傾向がある。シザーマンの元ネタを実在の犯罪者や事件に求めようとする動きは、ゲームが登場した当初から続いている。明確な答えがないからこそ、議論が終わらない。そして議論が続くからこそ、クロックタワーは「都市伝説」としての側面を帯びていく。
さらに言えば、クロックタワーは「女の子が主人公」であることも重要だ。
1990年代当時、アクションゲームやホラーゲームの主人公は男性キャラクターが多かった。戦えない女性主人公が、巨大な凶器を持つ怪物から逃げ続けるという設定は、当時としてはかなり特異なものだった。この「守られる側」「弱い側」の視点でゲームを体験させるというデザインが、プレイヤーの感情移入を高め、恐怖を増幅させたとも言える。
ホラー映画の世界では「最後に生き残る女性(Final Girl)」というコンセプトが1970年代から存在する。クロックタワーのジェニファーも、この文脈に沿ったキャラクターだと見ることができる。シザーマンは、映画的な文法とゲーム的な体験が交差するところから生まれた存在なのかもしれない。
もう一つ、クロックタワーが語り継がれる理由として「謎が解けない」という点も大きいと思う。
シザーマンの正体、ゲームの背後にある本当の元ネタ、開発者が本当に伝えたかったこと——これらについては、断片的な情報は残っているが、すべてが明らかになっているわけではない。謎が残ることで、考察や議論の余地が生まれ続ける。そしてその「解けない謎」こそが、都市伝説の本質でもある。
ゲーム史の観点からも、クロックタワーが持つ意義は大きい。
1990年代前半は、ゲームというメディアが「子供の遊び」から「文化的な表現媒体」へと移行し始めた時期だった。暴力表現や恐怖表現をどこまでゲームに持ち込めるか、という議論が世界中で起きていた。日本では任天堂が厳格なレーティング基準を設けていたため、スーパーファミコンのソフトで本格的なホラーを作ることは非常に難しかった。
クロックタワーはその制約の中で、「血を見せない恐怖」「暴力を描かない恐怖」を実現したとも言える。シザーマンのハサミは「凶器」ではあるが、ゲーム中に直接的な流血描写はほとんどない。それでもあれほど怖いのは、「想像力に訴える恐怖」の設計が優れているからだ。見えるより、見えない方が怖い——その原則を、クロックタワーは完璧に体現していた。
シザーマンと現実犯罪の「距離感」について考える
ここで少し立ち止まって、冷静に考えてみたい。
「シザーマンは実在の犯罪者がモデルだ」という説は、インターネット上でしばしば登場する。しかし現時点で、特定の実在の犯罪者がシザーマンの直接のモデルになったという明確な証拠は存在しない。
開発者の河野氏が公式に認めている元ネタは、あくまでも映画『フェノミナ』だ。それ以外の要素——ドイツの民話、ヨーロッパのホラー映画の文脈、当時の社会的な空気——は状況証拠に近いものであり、「確実にこれがモデルだ」とは言い切れない。
だが、だからこそ都市伝説として面白い。
「本当のことはわからない」という余白が、人々の想像力を刺激する。「実は実在の事件がモデルだったのかも」という可能性が、ゲームに現実との接続点を与え、恐怖をより生々しいものにする。
都市伝説というのは多くの場合、「確認できないが否定もできない」という曖昧な領域で生きている。クロックタワーをめぐる元ネタ議論は、まさにその性質を持っている。そして、その「答えの出ない議論」が30年続いているという事実自体が、シザーマンという存在の都市伝説的な力を証明しているとも言えるだろう。
ホラーフィクションと現実の事件を結びつけて考えたがるのは、人間の根本的な性質に根ざしている。「この話には実在の根拠があるのではないか」という疑問は、恐怖の信憑性を高める効果がある。映画や小説が「実話に基づく」と書かれると一層怖く感じるのと同じ理屈だ。シザーマンをめぐる「元ネタ探し」の文化は、その人間の本性が生み出したものと言えるかもしれない。
まとめ
クロックタワーというゲームは、単なるホラーゲームの枠を超えた存在だ。
イタリアンホラーという土台の上に、ヨーロッパの民間伝承、人間の本能的な恐怖、1990年代の日本社会の空気、そして現代のホラーゲームデザインへの影響——多くのものが重なり合って、シザーマンという「都市伝説的な存在」は生まれた。
シザーマンの直接の元ネタとして最も有力なのは、ダリオ・アルジェント監督の映画『フェノミナ』だ。少女を追い詰める「異形の追跡者」という構図、主人公の名前「ジェニファー」——これらは開発者自身が認めているオマージュとされている。そこにドイツの民話的な「刃物を持つ怪物」のイメージが重なり、さらに当時の社会的な恐怖感が背景として加わった。
だが、そこで話が終わらないのがクロックタワーの面白いところだ。
刃物への本能的な恐怖、追われる夢という普遍的な体験、名前を呼ぶことによる個人的な恐怖の増幅、音による演出、「不気味の谷」的な違和感——これらの要素が絡み合い、単なる「ゲームのキャラクター」を超えた何かになっている。
そして、それをプレイした人たちが体験した「あの夜の怖さ」は、30年経っても消えていない。
シザーマンが架空の存在だとわかっていても、夜中の廊下を歩くとき、「ちょっと待って」と感じてしまう人がいる。それだけの力を持った恐怖を、1995年のゲームが作り出したということだ。
クロックタワーという都市伝説は、ゲームの中だけに存在するのではない。プレイヤーたちの記憶の中で、今も生き続けている。
そしてその記憶は、新しい世代に語り継がれるたびに、少しずつ形を変えながら広がっていく。それが都市伝説というものの、本当の生命力なのだと思う。
シザーマンは、あなたの後ろにいるかもしれない。
振り返る勇気は、あるだろうか。