「赤い靴」の少女は、日本で死んでいた

横浜の山下公園に、小さな女の子の像がある。

赤い靴を履いた少女の像だ。

観光スポットとして有名だけど、この像の背後にある話を知ると、少し立ち止まらずにはいられなくなる。

「赤い靴はいてた女の子、異人さんにつれられていっちゃった」

誰もが一度は聞いたことがある童謡。でも、この歌詞の「本当の意味」を知っている人は少ない。

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少女は異人さん(外国人)に連れられてアメリカに渡った、というのが一般的なイメージだろう。幸せな旅立ちか、あるいは悲しい別れか。そういうふんわりした解釈で終わっている人が多い。

でも実際は、まったく違う。

その少女は、アメリカに行っていない。日本で死んでいた。たった9歳で。

しかも、彼女の母親はそのことを知らないまま、娘が遠い異国の地で幸せに暮らしていると信じ続けた。

この話は都市伝説ではなく、実際に起きた出来事だ。だからこそ、余計に重い。

なぜこんなことが起きたのか。少女の名前は何というのか。そして、この話がなぜ「都市伝説」として語り継がれるのか。

一緒に、掘り下げていこう。


赤い靴の少女とは何者か|童謡に隠された実話

まず、「赤い靴」という童謡そのものの話をしよう。

この曲は1922年(大正11年)に発表された。作詞は野口雨情(のぐちうじょう)、作曲は本居長世(もとおりながよ)。「しゃぼん玉」や「七つの子」でも知られる野口雨情の代表作のひとつだ。

歌詞はこうだ。

赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった

横浜の 埠頭から 汽船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった

今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう

赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった

「異人さん」というのは、外国人のことを指す当時の言葉だ。今では使わない表現だけど、明治・大正の時代には普通に使われていた。

一見すると、外国人に連れられて海外に渡った少女の話、という印象を受ける。

でも、野口雨情がこの詩を書いたのには、実際のモデルがいたという。

その少女の名前は、岩崎きみ(いわさき きみ)。

1902年(明治35年)、静岡県で生まれた。この子が、赤い靴の少女のモデルだとされている。

きみちゃんの生涯|知られていなかった結末

きみちゃんの母の名は、岩崎かよ(いわさき かよ)。未婚のままきみを産んだかよは、一人で育てていくことが難しいと判断した。

そこへ、アメリカ人宣教師のチャールズ・ヒュエット夫妻が現れた。北海道で開拓民の支援をしていた夫婦で、きみを養女として引き取ることになった。

かよはきみを手放した。

娘がアメリカで幸せに暮らしてくれると信じながら。

ところが、ヒュエット夫妻はアメリカに帰国する前に、きみが結核(けっかく)を患っていることに気づいた。当時の結核は重い病気だった。病気の子どもを外国まで連れていくことは難しい。

夫妻は、きみを東京の孤児院に預けた。

麻布にあった「永坂孤女院」というキリスト教系の施設だ。

きみは、そこで1911年(明治44年)に亡くなった。9歳だった。

母のかよは、きみが孤児院に預けられたことも、そこで死んだことも、知らなかった。ずっと「娘はアメリカにいる」と思い続けた。

野口雨情は、このきみちゃんの話を聞いて詩を書いたとされている。

ただし、雨情本人が「きみちゃんの話をもとに書いた」と明言した記録は残っていない。あくまで「そういう説がある」という話だ。真相は今もはっきりしていない部分がある。

かよはその後どうなったのか

きみを手放した後、母・かよには別の人生があった。

彼女は後に再婚し、別の子どもを産んで北海道に移り住んだ。きみのことは「元気でアメリカに渡った」と思い込んだまま、日常の生活を続けた。

かよが死ぬまで、娘の本当の結末を知ることはなかったとされている。

これが、この話で一番重い部分だと思う。

きみが孤児院で過ごした数年間、母は別の場所で別の暮らしをしていた。9歳の子どもが一人で死んでいく間、母は「娘はアメリカで幸せにやっている」と信じていた。

知ることがなかったという事実が、あまりにも残酷だ。

永坂孤女院とはどんな場所だったのか

きみが預けられた永坂孤女院について、もう少し詳しく見てみよう。

この施設は、明治時代にキリスト教の慈善活動として設立された孤児院だ。麻布という場所は、当時から外国人が多く住む地域で、宣教師たちの活動拠点のひとつだった。

孤児院には、さまざまな事情で親と離れた子どもたちが集まっていた。親が死んだ子、捨てられた子、病気で育てられなくなった子。そういう子どもたちが、施設の中でひっそりと暮らしていた。

きみは、その中の一人だった。

結核という病気を抱えながら、知らない大人たちに囲まれて過ごした数年間。母の顔を覚えていたかどうかも分からない。アメリカ人の養父母は去り、母は遠い場所にいる。

9歳で死ぬまでの間、きみが何を思っていたか。記録には残っていない。


横浜と赤い靴の少女|なぜ横浜が舞台なのか

童謡の歌詞には「横浜の埠頭から汽船に乗って」とある。

だから、赤い靴の少女は横浜ゆかりの話として語られることが多い。山下公園の像も、そのイメージから建てられたものだ。

でも実際、きみちゃんは横浜に住んでいたわけではない。静岡生まれで、東京の孤児院で亡くなっている。

それなのになぜ横浜が出てくるのか。

当時、外国への船は横浜港から出ていた。明治・大正時代の日本において、横浜は「海外へのゲートウェイ」だった。外国人と関わる話といえば横浜、というイメージが強かった時代だ。

野口雨情が「横浜の埠頭から」と書いたのも、実際の出来事というより、「異人さんが来る街」としての横浜のイメージを使ったと考えられている。

また、野口雨情自身、横浜には縁がある。かつて横浜の新聞社で働いていた時期もあり、港町・横浜は彼にとって身近な場所だった。

明治の横浜港が持っていた空気感

今の横浜はおしゃれな観光地だが、明治・大正の横浜は少し違う雰囲気を持っていた。

外国の船が頻繁に出入りし、様々な国の人間が行き交う場所。日本人と外国人の境界が曖昧になる場所でもあった。

ある日本語の古い資料には、横浜の埠頭について「人が来て、人が消えていく場所」と表現されている。

船で来た人が上陸し、船に乗った人が消えていく。そのたびに別れがあり、また再会もある。でも、消えた先が分からないことも多かった。

きみちゃんの場合、消えた先は「アメリカ」ではなく「孤児院」だった。でも母・かよにとっては「横浜から船で旅立った娘」のイメージが全てだったはずだ。

港というのは、「送り出した後に何も分からなくなる場所」でもあった。

山下公園の像はいつ建てられたのか

横浜・山下公園にある赤い靴の女の子の像は、1989年(平成元年)に建てられた。

童謡「赤い靴」発表から67年後のことだ。

像は小さな女の子が赤い靴を履いている姿で、ブロンズ製。横浜の観光スポットとして多くの人が訪れる。

ただ、この像にまつわる「怖い話」もある。

夜になると像の目が赤く光る、という話だ。

像の目が光るのは、きみちゃんの霊が宿っているからだとも言われている。もちろん、実際には像の目が光るような構造にはなっていない。でも、夜の港で一人佇む少女の像というのは、それだけで少し不思議な雰囲気を持っている。

心霊スポットとして紹介されることもあるが、実際に霊的な現象が確認されたわけではない。あくまで「そういう噂がある」という話だ。

像の「向き」に込められた意味

山下公園の像は、海の方を向いている。

これはおそらく設計上の意図だと思うが、「アメリカへ向かった少女」というイメージと重なるから、より物語的に見える。

でも、きみちゃんの話を知った上でこの像を見ると、少し感じ方が変わる。

アメリカに行けなかった少女が、行けなかった方向を向いて立っている。

そういう見方をすると、この像はただの観光モニュメントじゃなくなる。

何年か前、地元の方がSNSに書いていた。「子どもの頃から毎日のように通っていた公園なのに、きみちゃんの話を知ってから像の前を通るのが少し怖くなった」と。怖いというより、直視しにくくなった、という感覚に近いらしい。


証言・体験談|赤い靴の少女にまつわる不思議な話

都市伝説には、必ずと言っていいほど「目撃談」や「体験談」が付いてくる。赤い靴の少女も例外ではない。

ここでは、インターネット上や書籍などで語られている話をいくつか紹介しよう。

山下公園での目撃談

横浜在住の女性(当時30代)がネット掲示板に書き込んだとされる話がある。

彼女は夜の山下公園を友人と散歩していた。時刻は夜11時ごろ。

像の前を通り過ぎようとしたとき、友人が突然立ち止まった。「ねえ、今あの像の前に誰かいなかった?」と言い出したという。

彼女には何も見えなかった。でも友人は、「小さな女の子が像の前にしゃがんでいた。赤い靴を履いていた」と主張した。

周囲を見渡したが、その場には二人しかいなかった。子どもなんてどこにもいない。

友人は気味が悪いと言ってその場を離れたという。

この話がどこまで本当かは分からない。でも「赤い靴を履いた子ども」という描写が、偶然とは言えない気がする。

夜の山下公園を何度も訪れた男性の話

別の証言もある。

横浜市内に住む40代の男性が、あるポッドキャストの怪談回で語っていた内容だ。

彼は仕事の関係で、深夜に山下公園の近くを通ることが多かった。特に気にもせず、何百回と通ってきた道だという。

ある秋の夜、像の前を通り過ぎたとき、ふと足が止まった。

理由が分からなかった。ただ、止まらないといけない気がした。

像の前に立って、しばらく眺めていた。するとどこからか、子どもの鼻歌のような音が聞こえてきた気がした。風の音だとも思ったが、それにしては音に抑揚がありすぎた。

気になって周囲を見回したが、誰もいない。潮風が吹いていただけだった。

その後、彼はきみちゃんの話を調べて知った。「あの夜の音が何だったかは分からない。でも、あの場所であの話を知ってしまったら、単純な偶然とは思えなくなった」と話していた。

音が本当に聞こえたのか、風の音を脳が勝手に解釈したのかは分からない。でも、「場所の持つ記憶」みたいなものが人間の感覚に影響することは、心理学的にも説明できる部分がある。

童謡を聞いて泣き出した子ども

別の話もある。

横浜市内の幼稚園での出来事として語られている話だ。

ある日、先生が「赤い靴」の童謡を子どもたちに聴かせた。普通の授業の一環だった。

ほとんどの子どもは普通に聞いていたが、一人の女の子だけが突然泣き出した。

先生が「どうしたの?」と聞くと、女の子はこう答えたという。

「あの子がかわいそう。お母さんに会いたいって言ってるのに、誰も聞いてあげないから」

先生はぎょっとした。その子は、まるで何かが「見えている」かのような言い方をしたからだ。

その後、その女の子は体調を崩して数日間学校を休んだという。回復してから先生が「あの時どうして泣いたの?」と聞くと、「忘れた」とだけ答えた。

このエピソードは、複数のブログや掲示板で似たような形で語られている。細部が少しずつ違うので、おそらく都市伝説として広がっていったものだろう。でも「子どもにしか見えないものがある」というモチーフは、日本の怪談によく出てくる。

静岡・麻布をめぐる「きみちゃんの足跡」

きみちゃんゆかりの場所を訪れた人の体験談も存在する。

きみが生まれた静岡県、そして亡くなった東京の麻布エリア。これらの場所を「きみちゃんの足跡を辿る旅」として訪れた人がいる。

あるブロガーが書いた記事によると、かつて永坂孤女院があったとされる場所の近くを歩いていたとき、「小さな足音がついてくる気がした」という。振り返っても誰もいない。でも、その足音は敷地内に入るまで続いたという。

このブロガーはその後、「怖いというより、なんか寂しい感じがした」と書いていた。その表現が、この話の本質をよく表しているように思う。

「赤い靴」を歌えなくなった女性

もう一つ、印象に残る話がある。

ある女性が、きみちゃんの話を知ってから「赤い靴」を歌えなくなったと話していた。

幼稚園の頃から歌ってきた歌なのに、真実を知った瞬間に、歌詞の意味がまったく変わって聞こえた。「行っちゃった」という言葉が、もう旅立ちに聞こえない。死んでいった子の話に聞こえる。

そう感じてしまったら、もう無邪気に歌えなくなった、と。

心霊体験でも目撃談でもない。でも、この話が「都市伝説として広まる理由」を一番よく表しているエピソードだと思う。知ってしまったら、元には戻れない感覚。それが、この話の怖さの正体かもしれない。


民俗学・歴史から見た赤い靴の少女|童謡の「闇」を読み解く

怪談や都市伝説を「怖い話」として楽しむだけでなく、その背景にある社会や歴史を見ていくと、また別の怖さが見えてくる。

明治・大正時代の「子捨て」と社会背景

きみちゃんの母、岩崎かよが娘を手放したのは、決して冷たい親だったからではない。

当時の日本は、今とは全く違う時代だった。未婚の母というのは、社会的に非常に厳しい立場だった。子どもを一人で育てられる環境が整っていなかった。

かよは、娘の幸せを願って手放した。でも、その選択が、きみに孤独な死をもたらすことになった。

この構造は、今も似たような形で残っているとも言える。経済的な理由、社会的な理由で子どもを手放さざるを得ない親は、今の時代にもいる。

童謡「赤い靴」が持つ悲しさの本質は、戦争でも病気でも事故でもなく、「社会の貧しさと情報の断絶」にあると思う。

明治時代の結核という病気について

きみちゃんが命を落とした結核は、当時「国民病」とも呼ばれた病気だった。

明治時代の日本では、結核で亡くなる人が非常に多かった。抗生物質がない時代、有効な治療法はほとんどなかった。特に子どもや栄養状態が悪い人は、回復が難しかった。

ヒュエット夫妻がきみを孤児院に預けたのも、「病気の子どもを長距離の船旅に連れていけない」という判断だったとされている。

悪意があったかどうかは分からない。当時の医療環境や渡航事情を考えると、一概に責めることもできない選択かもしれない。でも結果として、きみは一人残された。

病気、貧困、社会的な差別、情報の断絶。明治時代にはそのすべてが絡み合って、きみのような子どもを生み出した。一人の少女の話だが、同じような境遇の子どもたちが無数にいたはずだ。

赤い靴が持つ象徴的な意味

「赤い靴」というアイテムは、世界的に見ると特別な意味を持つことが多い。

アンデルセンの童話「赤い靴」では、赤い靴を履いた少女が止まれなくなって踊り続け、最終的に足を切り落とさなければならなくなる。欲望や罰の象徴として描かれている。

ヨーロッパの民間伝承でも、赤い靴は「普通の世界から外れた場所へ連れていくもの」として描かれることがある。

日本の「赤い靴」も、結果的に少女を「どこか遠い場所へ連れていくもの」になった。

色(赤)と靴(移動・旅立ち)の組み合わせが、世界をまたいで「不思議な旅立ち」のイメージと結びついているのは、面白い一致だ。偶然かもしれないし、人間の感覚に共通する何かがあるのかもしれない。

「赤」という色が持つ二重の意味

日本の文化において、「赤」は特別な色だ。

お守りや神社の鳥居など、赤は「魔除け・生命力」の色として使われる一方、血や危険の象徴でもある。

子ども用の下着や衣類を赤にする習慣は、「赤が邪気を払う」という信仰から来ている。きみちゃんが赤い靴を履いていたとしたら、それは母親が「娘を守りたい」という気持ちから選んだ色かもしれない。

でも、その赤い靴が「連れていかれた」象徴になった。

守るはずの赤が、別れの象徴になる。そのひっくり返りが、この話のどこかやりきれない部分を作っているように思う。

童謡に「呪い」をかける文化的背景

日本には、特定の歌を歌うと不吉なことが起きる、という話が各地に残っている。

「赤い靴」も、地域によっては「歌ってはいけない童謡」として語られることがある。夜に一人で歌うと子どもが連れていかれる、という形で伝わっている地域もあるらしい。

これは迷信だが、なぜこういう話が生まれるかを考えると面白い。

「行っちゃった」という歌詞の繰り返しが、まるで呪文のように聞こえる。子どもが「異人さん」に連れられていく描写が、さらわれる怖さに重なる。

本当の意味を知る人は少ないまま、歌の雰囲気だけが「何か危ないものを呼ぶ気がする」という感覚を与え続けてきたのかもしれない。

野口雨情の詩に込められたもの

野口雨情という人は、「悲しい詩」を多く書いた詩人だ。

「しゃぼん玉」も、実は雨情が亡くした子どもへの鎮魂の詩だという説がある(真偽は不明だが)。「七つの子」も、どこかもの悲しい雰囲気を持っている。

雨情が書く童謡には、子どもに向けた明るさよりも、大人が感じるような「どうにもならない悲しさ」が漂っていることが多い。

「赤い靴」も、表面上は子どもが海外に旅立った話に見える。でも何度も読むと、「行っちゃった」という言葉の繰り返しが、ただの旅立ちじゃなく、永遠の別れのように聞こえてくる。

「今ではあおい目になっちゃって」という一節も、よく考えると怖い。まるで、もうその子は別の存在になってしまったかのような言い方だ。

雨情がきみちゃんの話を知っていたとしたら、詩の中に「どこかで死んでいるかもしれない」という予感を込めていたのかもしれない。

雨情自身が経験した「別れ」の多さ

野口雨情の人生を振り返ると、彼が「別れ」というテーマに敏感だったことが分かる。

雨情は幼い頃に父を亡くし、子どもも失っている。また、新聞社に勤めながら各地を転々とした時期もあり、家族と長く離れた経験を持つ。

そういう人生を生きた詩人が、「遠くへ連れていかれた少女」の話に触れたとき、どんな感情を持っただろうか。

詩の行間に、単なる情報の伝達以上の何かが込められているような気がする。

雨情にとって「赤い靴の少女」は、社会から切り捨てられたすべての子どもたちへの、言葉にならない鎮魂だったのかもしれない。


現代に語り継がれる理由|赤い靴の少女が都市伝説になったわけ

きみちゃんの話は、史実として確認できる部分も多い。都市伝説というより「知られていない歴史」の話だ。

それなのに、なぜ「都市伝説」「怖い話」として語られるようになったのか。

「知らなかった」という衝撃

誰もが子どもの頃から知っている童謡に、これほど重い実話が隠れていたという驚き。

これが最初のインパクトだ。

「当たり前だと思っていたものの裏側に、怖い真実がある」という構造は、都市伝説の典型的なパターンだ。給食に使われている肉の正体、テレビ番組の裏に隠されたメッセージ、有名な歌の本当の意味——こういう「実は知らなかった系」の話は、強い印象を残す。

「赤い靴」もその一つとして広まっていったと思われる。

母と子の断絶が持つ普遍的な悲しさ

きみちゃんの話が刺さるのは、「悪い人が出てこない」からだと思う。

悪意のある誰かに騙された話ではない。みんな、それぞれの事情の中で精一杯だった。かよも、ヒュエット夫妻も、孤児院のスタッフも。でも結果として、9歳の子どもが孤独に死んだ。

誰も悪くないのに、最悪の結末になった。

こういう話は、ホラー映画の怪物よりもずっと怖い。なぜなら、「同じことが今の時代にも起きうる」という感覚があるから。

「親に知らせてもらえなかった」という恐怖

都市伝説やホラー話に共通するパターンのひとつに、「真実が隠された」という構造がある。

きみちゃんの話では、母・かよに真実が伝えられなかった。娘が死んだのに、知ることができなかった。

これは、現代人が読んだときに「情報が届かなかった時代の怖さ」として強く響く。

今ならスマートフォン一台で世界中と連絡が取れる。でもかよが生きた明治・大正の時代、自分の娘がどこにいるかを確かめる手段はほとんどなかった。

「知る手段がない」という状況は、今の私たちにはなかなか想像しにくい。だからこそ、その断絶の深さが余計に怖く感じる。

横浜という場所が持つ特別な雰囲気

横浜は、日本の近代の「入口」だった場所だ。

開港以来、外国文化が最初に入ってきた街。洋館が立ち並び、外国人居留地があり、山手の丘には今も異国情緒が残っている。

「どこか遠い場所につながっている」感覚が、横浜という街には今も漂っている。

赤い靴の少女の像がここに建てられたのは、偶然ではないかもしれない。横浜という街が持つ「ここではないどこかへ」という雰囲気が、きみちゃんの話と重なる。

夜の山下公園、港の波音、遠くに見える船の明かり。そういう環境の中で像の前に立つと、都市伝説的な想像力が動き出すのも無理はない。

SNS時代に加速する「再発見」

きみちゃんの話は、SNSでたびたびバズる。

「赤い靴の童謡の本当の話知ってる?」という形で拡散され、そのたびに多くの人が「知らなかった」と反応する。

Twitterやインスタ、TikTokで何度も「再発見」されながら、少しずつ付け足しや誇張が加わって、都市伝説的な形に変化している部分もある。

「像の目が光る」「夜に近づくと泣き声がする」といった話は、おそらくSNS以降に膨らんだ話だろう。でも、それも含めて都市伝説の生き方だ。

「本当に起きた話」が怪談より怖い理由

フィクションの怪談は、「これは作り話だ」と分かった瞬間に怖さが半減する。

でも、きみちゃんの話は実際に起きたことだ。

史実と確認できる部分がある。出生記録、孤児院の記録、野口雨情との関係を示す資料。全てが架空ではない。

「実際にあった話」というのは、怪談としての強度が全く違う。作り話じゃないから、「自分の身にも起きうる」というリアリティが生まれる。

この話が長く語り継がれているのは、ホラーとしての演出があるからではなく、「本物の悲しさ」があるからだと思う。


赤い靴の少女に会いに行く|ゆかりの場所ガイド

きみちゃんの話に触れた後、実際にゆかりの場所を訪れる人も多い。

それぞれの場所について、少し紹介しておこう。

横浜・山下公園(神奈川県横浜市中区)

最も有名なゆかりの地。赤い靴の女の子の像がある。

像は公園内の海側エリアに設置されており、天気のいい日は海を背景に写真を撮る観光客も多い。

昼間はにぎやかな観光スポットだが、夜は雰囲気が一変する。波の音と潮風の中で像を眺めると、この記事で紹介したような話が現実味を帯びてくる。

もし訪れる機会があるなら、昼間だけでなく、夕暮れ時にも足を運んでみてほしい。夕日を受けて像が赤みを帯びる時間帯は、少し特別な雰囲気がある。

静岡県(きみの出生地)

きみちゃんが生まれた静岡県には、地元の郷土史家や研究者による記録が残っている。

静岡市内には、野口雨情と「赤い靴」の関係を示す解説板が設置されている場所もある。きみちゃんの話を知ってから静岡を訪れた人が「また違う気持ちで街を歩けた」と話すこともある。

麻布エリア(東京都港区)

かつて永坂孤女院があった麻布は、今は高級住宅地として知られる場所だ。

孤女院の建物はすでにない。でも、この地域を歩くと、明治時代のキリスト教系施設が多く活動していたことを示す痕跡がいくつか残っている。

きみちゃんが9歳で亡くなった場所が、今どんな風景になっているかを自分の目で確かめることができる。


まとめ|赤い靴の少女が教えてくれること

赤い靴の少女、きみちゃんの話をざっとまとめると、こうなる。

  • 1902年、静岡で生まれた岩崎きみは、未婚の母に育てられた
  • 母・かよはアメリカ人宣教師夫妻にきみを託した
  • きみは結核のため、横浜ではなく東京の孤児院に預けられた
  • 1911年、9歳でその孤児院にて亡くなった
  • 母・かよは、きみがアメリカにいると信じていた
  • 野口雨情はこの話(あるいは似た話)をもとに童謡「赤い靴」を書いたとされている

これは、幽霊の話でも怪物の話でもない。

でも、普通の怪談よりも重い何かを持っている。

あの童謡を聴くたびに「行っちゃった」という言葉の意味が変わって聞こえる。きみちゃんが連れていかれた先は、アメリカではなく、もっと遠い場所だったのかもしれない。

母は今でも知らない。娘がとっくに旅立っていたことを。

横浜の山下公園の像は、今日も海を向いて立っている。赤い靴を履いたまま。

次に「赤い靴」の童謡を耳にしたとき、ちょっとだけ「きみちゃんはどこにいたんだろう」と思い出してほしい。

それだけで、この話を語り継ぐことになるから。

この話から考えること

きみちゃんの話は、100年以上前の出来事だ。でも、読んだ後に何か引っかかりが残るとしたら、それはきっと「同じ構造が今も存在する」からだと思う。

誰かが誰かを思いやった結果、すれ違いが起きる。情報が届かない。確かめる手段がない。そして、取り返しのつかないことが起きる。

悪意がなくても悲劇は起きる。善意だけでは守れないものがある。

赤い靴の少女の話が「都市伝説」として残り続けているのは、怖いからじゃなくて、忘れてはいけない感じがするからかもしれない。

きみちゃんのことを、誰かが覚えていてあげること。それが、この話を語り継ぐ意味なのかもしれない。


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