よう、シンヤだ。本好きなやつに聞きたいんだけどさ、図書館で「確かにあったはずの本」が見つからない経験ってないか?棚を何度探しても出てこない。記録にもない。今夜はそんな、存在したはずなのに消えてる本の話をしようか。

『図書館で見つからない本』の実存主義的考察|存在と不在のパラドックス

図書館である本を探していると、カタログには存在が記録されているはずなのに、書架に見当たらない。そういった経験を誰もが一度は持ったことがあるかもしれません。一見すると単純な話に聞こえますが、この現象は「存在とは何か」という哲学的な問題を静かに孕んでいます。

ただの紛失、ただの管理ミス。そう片付けてしまえばそれまでだが、少しだけ立ち止まって考えてみてほしい。なぜ「あるはずのものがない」という状況は、これほどまでに人の心を揺さぶるのか。そこには、人間が「存在」というものをどう捉えているかという、思った以上に根深い問題が横たわっている。

カタログの中の本と、現実の本

近代図書館は精密な情報管理システムの上に成り立っています。カタログデータベースに登録された本は、システム上では「存在する」ことになっている。けれど、実際の書架に置かれているかどうかは、まったく別の話です。

貸出中かもしれない。修繕のために一時的に書架から外されているのかもしれない。配置場所に誤りがあるだけかもしれないし、盗難や破損でとっくに物理的には消えているのかもしれない。いずれにしても、カタログ上の存在と、手で触れられる現実との間にズレが生じている。

図書館を訪れた人が味わうのは、この齟齬の瞬間です。「あるはずの本」を求めて書架を行ったり来たりする。カタログには確かに記録がある。なのに実体は手に入らない。この不可解な感覚は、実存主義が長く問い続けてきた問題と、根の部分でつながっています。

図書館という空間が持つ独特の緊張感

そもそも図書館という場所には、独特の空気がある。静寂が支配し、時間の流れが外の世界とは違っている。書架の間を歩いていると、何万冊という本がこちらを見ているような、奇妙な圧力を感じることがある。

その圧力の正体は、おそらく「蓄積された知識」の重みだ。一冊一冊に著者の人生の一部が封じ込められていて、それがぎっしりと棚に並んでいる。図書館は、いわば大量の「凍結された思考」が保管されている場所と言っていい。

だからこそ、その中から一冊が消えていると気づいたとき、奇妙なざわめきを覚える。全体の秩序がわずかに乱れている感覚。ジグソーパズルのピースがひとつだけ抜けているのを発見した瞬間に似ている。たった一冊、されど一冊。その不在は、全体の完全性に亀裂を入れる。

サルトルの「本質と存在」と図書館

フランスの哲学者サルトルは「存在は本質に先行する」という有名な命題を残しました。これを図書館の本に当てはめると、面白い解釈ができます。

図書館の本は、データベースに登録された時点で「図書館に存在する本」という本質を与えられている。本質が、現実の物質的な存在より先に来ているわけです。ところが実際にはその本が書架から消えてしまったとしたら、本質と存在の間にズレが生じます。

こうなると図書館の訪問者は、否応なく問い直すことになる。「この本は本当に存在するのか?」と。システムが主張する存在と、自分の手で確認できる存在。どちらが真実なのか、答えは宙に浮いたままです。

サルトルが生きていた時代に今の図書館検索システムがあったら、彼はどう語っただろう。おそらく、検索端末の画面に表示される「所蔵あり」の文字と、空っぽの書架の間に立ち尽くす人間の姿に、実存の不安の具体的な表れを見出したに違いない。「所蔵あり」という情報は、本の本質を定義しているが、存在を保証してはいない。この落差こそがサルトル的な問題の核心だ。

ハイデガーの「手元存在」と「目前存在」

サルトルだけではない。ドイツの哲学者ハイデガーの概念を使うと、図書館の本の存在はさらに複雑な様相を呈する。

ハイデガーは存在のあり方を「手元存在(Zuhandenheit)」と「目前存在(Vorhandenheit)」に分けた。手元存在とは、道具として使われている状態のことだ。ハンマーで釘を打っているとき、人はハンマーを意識しない。ハンマーは手の延長として、透明な存在になっている。一方、目前存在とは、道具が壊れたときなどに、それが「モノ」として意識に立ち上がる状態を指す。

図書館の本も同じ構造を持っている。読みたい本がすぐに手に取れるとき、図書館のシステムは透明だ。誰もカタログの正確さや書架の配列を意識しない。しかし本が見つからないという事態が起きた瞬間、図書館というシステム全体が「目前存在」として浮かび上がる。分類番号、配架ルール、貸出管理――普段は見えない仕組みが、故障した機械の内部のように露わになる。

つまり、本が「見つからない」という出来事は、図書館というシステムそのものの存在を可視化する装置としても機能している。不在が、存在の構造を暴き出すのだ。

ボルヘスの「バベルの図書館」との接点

図書館と哲学の接点を語るなら、アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「バベルの図書館」に触れないわけにはいかない。この短編小説では、宇宙そのものが巨大な図書館として描かれる。あらゆる文字の組み合わせで書かれたあらゆる本が存在する、六角形の部屋が無限に連なる図書館だ。

ボルヘスの図書館には、すべての本が存在する。だからこそ、意味のある本を見つけることがほぼ不可能になっている。ほとんどの本はでたらめな文字の羅列だ。真実が書かれた本は確実に存在するが、それを探し当てる手段がない。

現実の図書館で「見つからない本」に直面するとき、ぼくたちは小規模ながらボルヘス的状況を追体験している。求める本はどこかに存在しているはずなのに、手が届かない。物理的に消えたのか、配架が間違っているのか、あるいはそもそも自分の記憶が間違っているのか。不確定な要素が重なり合い、確信が揺らいでいく。

ボルヘスが描いた図書館の住人たちは、究極の真実が書かれた「弁明の書」を探し求めて放浪し、やがて絶望する。現実の図書館利用者が一冊の本を探して書架をさまよう姿は、そのミニチュア版と言えなくもない。

情報社会における存在の定義の揺らぎ

デジタル化が進んだ現在、図書館の本の存在は一枚岩ではなくなっています。カタログシステムに記録されているという意味での存在がある。実際に書架に置かれているという物理的な存在がある。貸出制限や閲覧制限といった条件によって左右される、利用可能性としての存在もある。そして電子書籍やスキャンデータとして保存されるデジタルな存在もある。

これらがすべて揃っている本もあれば、どれかひとつだけがかろうじて成立している本もあります。図書館で本を探すとき、自分が求めている「存在」がどのレベルの話なのかによって、その本にたどり着けるかどうかはまるで変わってくるのです。

考えてみてほしい。ある絶版本がある。紙の本はもう手に入らない。けれどGoogleブックスで一部がプレビューできる。国会図書館のデジタルコレクションでスキャン画像が見られる。中古市場に時折出回る。この本は「存在する」のか?答えは、どの意味での「存在」を問うかによって、完全に変わってくる。

「記憶の中の本」という厄介な存在

図書館で見つからない本の中には、もっと根本的なレベルで存在が疑わしいものがある。「確かに以前読んだはずの本」「表紙の色まで覚えている本」「あの棚に並んでいたはずの本」。記憶が主張する存在だ。

しかし人間の記憶は驚くほど不正確だ。心理学では「偽記憶(フォールスメモリー)」という現象が広く知られている。実際には経験していないことを、鮮明に経験したと思い込む現象だ。特に読書にまつわる記憶は混同が起きやすい。ある本の内容を別の本と取り違える。存在しない本を「読んだ」と記憶する。二冊の本の記憶が融合してありもしない一冊を作り出す。

ネット上の読書コミュニティでは、こうした「見つからない本」の相談が後を絶たない。「子どもの頃に読んだ本を探している。内容は覚えているがタイトルがわからない」という類の投稿だ。中には、他の参加者の記憶と突き合わせても該当する本が特定できないケースがある。全員が「読んだ記憶がある」と言うのに、その本が実在する証拠がどこにもない。

こうなると話はオカルトめいてくる。だが哲学的に見れば、これは認識論の核心に触れる問題だ。記憶が主張する存在と、物質世界での存在。どちらがより「本当」なのか。あなたが確かに読んだと思っている本は、本当に存在したのか。

消失した本と幽霊めいた存在

長年、図書館に存在が記録されているのに一度も貸出されない本があります。業務上の誤りで、実物はとうに失われているのに、カタログデータだけが残り続けている本もあります。

こうした本の存在状態は、幽霊のようなものといっていいかもしれません。記録には残っている。社会的には存在が認められている。しかし手に取ることは、どうやってもできない。かといって、その存在をきっぱりと否定することもできない。

図書館利用者が「見つからない本」に出会うとき、彼らは知らず知らずのうちに、このパラドックスの渦中に立たされています。

国会図書館には、戦時中に発行された後に散逸し、現存が確認されていない出版物のカタログ記録が数多く残っている。発行された事実は記録にある。しかし現物を所蔵している機関はどこにもない。こうした資料は「存在した」のか「存在する」のか。過去形で語るべきなのか、現在形で語るべきなのか。時制の選択すら迷わせるのが、この種の不在の厄介さだ。

焚書と意図的な消去の歴史

本が「見つからない」原因が、偶然ではなく意図的な破壊であるケースもある。焚書――本を燃やす行為――は、人類の歴史の中で繰り返し行われてきた。

紀元前213年の秦の始皇帝による焚書坑儒。1933年のナチスによる焚書。文化大革命中の中国での大量の書物の破壊。どの時代も、権力者が「存在してはならない本」を物理的に消し去ろうとした。

しかし興味深いのは、焚書によって完全に消えた本でさえ、その「かつて存在した」という事実が記録や証言として残り続けることだ。古代アレクサンドリア図書館に収蔵されていたとされる数十万巻の書物のほとんどは、タイトルすら伝わっていない。だが「そこに膨大な書物があった」という事実は、二千年以上にわたって語り継がれている。

消された本は、消されたという事実によって、ある種の不滅性を獲得する。物理的には完全に消滅しているにもかかわらず、「存在していたのに消された」という物語の中で、逆説的に永遠の存在を得るのだ。ハインリヒ・ハイネの有名な警句「本を焼く者は、やがて人をも焼くだろう」が今なお引用され続けるのは、焚書の記憶がいかに強力かを物語っている。

禁書目録――存在しつつ読めない本

焚書とは別の形で「見つからない本」を生み出す仕組みもある。カトリック教会が1559年から1966年まで運用した「禁書目録(Index Librorum Prohibitorum)」がそのひとつだ。

禁書目録に載せられた本は、破壊されたわけではない。物理的には存在している。だが信徒が読むことは禁じられていた。存在するが、アクセスできない。図書館のカタログに載っているが手に取れない本と、構造としてはよく似ている。

皮肉なことに、禁書目録はしばしば読むべき本のリストとして機能した。「読んではいけない」と言われると読みたくなるのが人間の性だ。デカルト、ルソー、ヴォルテール、カント。禁書目録に名を連ねた思想家たちの著作は、禁止されたことでかえって読者を惹きつけた。

現代の図書館でも、閲覧制限がかかっている資料は存在する。性的表現を含む本、差別的表現を含む本、著作権の問題がある本。これらは書庫の奥に仕舞い込まれ、通常の検索では引っかからないことがある。存在するのに、システムの上では見えない。禁書目録の現代版と言えなくもない。

人間の認識と図書館システムの乖離

図書館で本を探す行為は、ある意味では、自分たちの認識世界と、システムが構築した情報世界のズレを身をもって確認する行為でもあります。

システムが「ある」と言う本が、現実には「ない」。この小さな体験は、私たちが日常的に依拠している情報システムが、必ずしも現実と一致していないことを突きつけてきます。デジタル化が進むほど、むしろこの乖離は広がっているのかもしれません。

図書館は知識の宮殿として語られることが多い場所です。しかし同時に、存在と不在の境界線がひどく曖昧な場所でもある。カタログの中と書架の間に横たわる距離は、物理的なものだけではありません。そこには、哲学的な深淵が口を開けています。

プラトンのイデア論と「理想の本」

もう少し哲学的な旅を続けよう。プラトンのイデア論を図書館に持ち込むと、また別の風景が見えてくる。

プラトンによれば、この世界に存在するすべてのものは、イデア界にある完全な原型の不完全な模倣にすぎない。椅子にはイデアとしての「完全な椅子」があり、現実の椅子はすべてその影だ、と。

これを本に当てはめるとどうなるか。書架に並んでいる本は、印刷された物理的な複製にすぎない。著者の頭の中にあった「理想の本」――完全な形で構想された作品――は、紙とインクに移された時点で何かが失われている。誤植、編集上の妥協、出版社の都合による削除。あらゆる現実的な制約が、理想の姿を歪めていく。

さらに言えば、同じ本でも版によって内容が異なる。初版と改訂版、ハードカバーと文庫版、翻訳版と原著。どれが「本物」なのか。プラトン的に考えるなら、そのどれもが「本物」ではない。すべてがイデアの不完全な投影にすぎないからだ。

図書館で見つからない本を探しているとき、本当に探しているのは特定の紙の束なのか、それともその本が伝えてくれるはずだった「何か」なのか。後者だとしたら、同じ内容が別の媒体で手に入るなら、目的は達せられるはずだ。しかし実際には、多くの人が「あの本」を求める。内容だけでなく、その物理的な存在を。

量子力学的アナロジー――観測するまで存在しない本

量子力学の世界では、粒子の状態は観測されるまで確定しないとされる。有名な「シュレーディンガーの猫」の思考実験では、箱の中の猫は観測されるまで生きている状態と死んでいる状態の重ね合わせにあるとされる。

図書館の本にも、似たようなアナロジーが成立する。あなたが書架の前に立ち、特定の棚に手を伸ばすまで、その本が「そこにある」のか「ない」のかは確定していない。カタログは可能性を示しているだけだ。実際に手を伸ばし、背表紙に指先が触れるその瞬間に、存在か不在かが確定する。

もちろんこれは厳密な量子力学ではなく、あくまで比喩だ。だが図書館利用者の主観的体験としては、かなり正確に当てはまる。検索端末の画面を見ている段階では、本は「ある」と「ない」の中間状態にある。期待と不安が入り混じった状態で書架に向かい、現実を確認する。その瞬間に波動関数が収束するように、存在か不在かが決まるのだ。

デリダの「痕跡」と不在の意味

フランスの哲学者ジャック・デリダは、言語の意味は「差異」と「痕跡」によって成り立つと論じた。ある言葉の意味は、それ自体の中にあるのではなく、他の言葉との差異の中に、そして不在の痕跡の中にある。

図書館で見つからない本は、まさにデリダ的な「痕跡」として機能する。書架の中で、その本があるべき場所にぽっかりと空いたスペース。両隣の本に挟まれた空白。カタログの請求記号が指し示す、しかし何もない場所。

この不在の痕跡は、ただの「空っぽ」ではない。それは「かつて何かがあった」ことを示している。あるいは「何かがあるべきだ」と示している。不在は、存在の輪郭を逆から描き出す。写真のネガのように、存在しないものの形が、周囲の存在によって浮かび上がるのだ。

本棚に空いた一冊分のスペース。それは物理的にはただの空気だ。だがその空間には、消えた本の記憶が染み込んでいる。そこを通りかかった誰かが「あれ、ここに何かあったはずなのに」と感じるとしたら、それはデリダが言う痕跡の作用そのものだ。不在が、存在よりも強く語りかけてくることがある。

図書館員の日常と「見つからない本」

ここまで哲学の話ばかりしてきたが、現場の話もしておこう。図書館員にとって「見つからない本」は日常的に向き合う問題だ。

利用者から「検索では所蔵になっているのに棚にない」と言われたとき、図書館員はまず配架ミスを疑う。日本十進分類法で一桁違う場所に入っていた、というのはよくある話だ。次に、書架整理のために一時的にブックトラックに載せられていないか確認する。それでも見つからなければ、他の利用者が館内で読んでいないか、返却棚に置かれていないかを探す。

それでも見つからない場合、その本は「不明本」として処理されることになる。一定期間探しても見つからなければ、最終的に「亡失」として除籍される。カタログから消える。つまり、物理的に消えた後、情報としても消える。二重の消滅だ。

しかし除籍までには通常、数カ月から数年の猶予がある。その間、その本はカタログ上では「存在する」のに物理的には「存在しない」という中間状態に置かれ続ける。図書館員はこの状態を日常的に管理している。存在と不在の境界を、事務的に処理する仕事。考えてみれば、かなり哲学的な営みだ。

本の物質性と内容の非物質性

本という存在のユニークさは、物質と非物質の二重性にある。本は紙とインクという物質でできている。重さがあり、大きさがあり、匂いがある。古い本には独特の甘い匂いがあるし、新しい本にはインクの鋭い匂いがある。

しかし本の「本体」は、その物質ではなく、そこに記された情報だ。同じ内容が電子書籍になっても、朗読音声になっても、点字になっても、その本の「中身」は保たれる。物質としての本が消えても、内容が別の形で残っていれば、ある意味ではその本は存在し続けている。

これは人間の身体と意識の関係にも似ている。身体は物質だが、意識は非物質だ。身体がなくなった後も、その人の思想や影響は残り続ける。図書館で見つからない本は、いわば「肉体を失った魂」のような状態にあるのかもしれない。記録として、記憶として、引用として、その本の内容は世界に散らばっている。ただ、手に取れる形では、もう存在しない。

インターネット時代の「見つからないページ」

図書館の「見つからない本」問題は、インターネット時代にそのまま引き継がれている。ウェブページの「404 Not Found」エラーがそれだ。

リンクをクリックしたら、そのページは存在しなかった。しかしリンクは存在している。誰かがそのURLを参照した形跡がある。検索エンジンのキャッシュには内容の断片が残っていることもある。ウェイバックマシン(Internet Archive)で過去のスナップショットを見れば、かつてのページが閲覧できることもある。

図書館のカタログとウェブのリンクは、同じ構造を持っている。どちらも「ここに情報がある」と指し示すポインタだ。そしてどちらも、指し示す先に実体がないことがある。リンク切れは、デジタル世界における「見つからない本」と言っていい。

デジタル情報は永遠に残ると思われがちだが、実際にはウェブページの平均寿命は驚くほど短い。数年で消えるページは珍しくない。サーバーが停止し、ドメインが失効し、データベースがクラッシュする。デジタルの世界でも、存在は脆い。物質的な本が火災や水害で失われるのと同じように、デジタルデータもまた静かに消えていく。

「見つからないこと」が生む創造性

ここまで「見つからない本」の不安や喪失を語ってきたが、別の角度から見ると、見つからないことが新しい何かを生み出す契機になることもある。

エーコの小説『薔薇の名前』は、アリストテレスの失われた『詩学』第二巻(喜劇論)をめぐる物語だ。この書物が実在したかどうかは確定していないが、「失われた書物」という想像力の触媒が、傑作小説を生み出した。

同じように、あるべき場所に本がなかったとき、人は想像する。その本にはどんなことが書いてあったのだろう。どんな知識が詰まっていたのだろう。不在が想像力を刺激し、実際の本を超える豊かな幻想を生むことがある。見つからないからこそ、理想化される。手に入らないからこそ、求め続ける。

図書館で見つからない本は、ある意味では「まだ読まれていない本」として、無限の可能性を秘めている。見つかってしまえば、内容は確定する。期待外れかもしれない。だが見つからない限り、その本はあなたの想像の中で、完璧な本であり続ける。

結局のところ、本は存在するのか

「図書館で見つからない本」という現象は、図書館の運営がうまくいっていないという話では片付きません。情報社会における「存在」の定義そのものが揺らいでいることの、ひとつの表れです。

本が完全に失われるまでの間、その本はある種の「可能性の領域」に漂っているのかもしれません。まだ見つけられていないだけで、どこかに眠っている。あるいは、探し求める人の頭の中に、想像上の存在として息づいている。

サルトルは問いかけた、存在と本質のどちらが先かと。ハイデガーは暴いた、不在によって存在が露わになることを。ボルヘスは描いた、すべてがあるのに何も見つからない世界を。デリダは示した、不在こそが意味を紡ぐことを。

図書館の書架をさまよいながら、見つからない本を探す。その行為そのものの中に、現代に生きる私たちが無意識に抱え込んでいる、存在についての根本的な問いが潜んでいるのです。次に図書館で本が見つからなかったとき、少しだけ立ち止まってみてほしい。その不在が語りかけてくる声に、耳を澄ませてみてほしい。あなたが探しているのは、本当に一冊の本なのか。それとも、もっと別の何かなのか。

「ない」ってことを証明するのは不可能に近いって話、哲学っぽいけど妙にゾクッとくるだろ。ハイデガーだのデリダだの持ち出したけど、要はさ、図書館の棚に空いたスペースって、ちょっとした異界の入り口みたいなもんだよ。まあ夜も深いし、今日はこのへんで。シンヤでした、また夜更かしの時にな。

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