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1872年12月、大西洋上で一隻の帆船が漂流しているのが発見されました。その名はメアリー・セレスト号。船体には大きな損傷がなく、積み荷もほぼ無傷で残されていたにもかかわらず、乗員10名は一人残らず姿を消していました。食事が途中のまま残されたテーブル、途絶えた航海日誌、消えた救命ボート。150年以上が経過した現在も、乗員たちの行方は判明していません。この記事では、海洋史上最大の未解決ミステリーとされるメアリー・セレスト号事件の全貌を、当時の記録と現代の科学的検証をもとに詳しく解説します。

メアリー・セレスト号とはどんな船だったのか

メアリー・セレスト号は、全長約30メートルのブリガンティン型帆船でした。1861年にカナダのノバスコシア州で建造され、当初は「アマゾン号」という名前で進水しています。建造後に何度かオーナーが変わり、船名も変更されました。船体は木造で、当時としては中規模の商船に分類されます。

1872年11月7日、メアリー・セレスト号はニューヨーク港を出港しました。目的地はイタリアのジェノヴァ。積み荷は工業用アルコール(変性アルコール)1701樽で、当時の金額にして約3万5000ドル相当の価値がありました。船長はベンジャミン・スプーナー・ブリッグスで、妻のサラと2歳の娘ソフィアも同乗していました。乗組員は一等航海士のアルバート・リチャードソンを含む7名。合計10名が船に乗り込んでいたのです。

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幽霊船の発見|デイ・グラシア号が見た光景

12月5日、ポルトガル沖の大西洋上で、イギリスの商船デイ・グラシア号がメアリー・セレスト号を発見しました。デイ・グラシア号の船長デイヴィッド・モアハウスは、偶然にもブリッグス船長の知人でした。遠方から帆の状態がおかしいことに気づき、接近を試みたところ、船上に人の気配が全くないことが判明したのです。

乗り込んだ調査員たちが目にしたのは、不可解な光景でした。船内のコンパスは破損し、六分儀やクロノメーターといった航海計器が見当たりませんでした。船長用の救命ボートが1隻なくなっており、メインハッチが開放された状態でした。船底には約1メートルの浸水がありましたが、これは航行に支障をきたすほどの量ではありません。積み荷のアルコール樽は1701樽のうち9樽が空になっていましたが、残りはすべて無事でした。

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不自然に途絶えた航海日誌の記録

最大の謎の一つが、航海日誌の最後の記録です。日誌の最終エントリーは11月25日付で、船の位置がサンタマリア島(アゾレス諸島)の西方約6マイルの地点であったことが記されていました。しかし船が発見されたのは、そこから約400マイル東の地点です。つまり、乗員が消えた後も船は10日間ほど無人のまま航行を続けていたことになります。

日誌の内容自体に異常な記述はなく、悪天候や船内トラブルを示す記載もありませんでした。まるで何事もない日常の航海記録が、ある日突然途切れたかのようだったのです。食堂のテーブルには食事の痕跡が残されており、乗員たちが計画的に退船したというよりは、何かに迫られて急いで船を離れた可能性を示唆していました。

海賊説と反乱説|初期の調査で浮上した仮説

事件直後、ジブラルタルの海事裁判所で審理が行われました。裁判を担当したフレデリック・ソリー・フラッド検事は、当初から犯罪行為を疑っていました。最初に注目されたのは海賊による襲撃説です。しかし船内に暴力の痕跡はなく、乗員の私物や貴重品もそのまま残されていたため、この説は早々に否定されました。金品を狙う海賊が、高価なアルコール樽を放置して去るとは考えにくいのです。

次に浮上したのが乗組員による反乱説です。しかしブリッグス船長は乗員からの信頼が厚い人物として知られており、航海中の紛争を示す証拠も見つかりませんでした。また、デイ・グラシア号の乗員が保険金目当てに乗員を殺害したのではないかという陰謀説も唱えられましたが、裁判所はこれも退けています。結局、審理は明確な結論を出せないまま終了しました。

アルコール蒸気爆発説|現在最も有力な仮説

現代の研究者たちが最も支持しているのが、積み荷のアルコール蒸気による爆発(または爆発の恐怖)説です。メアリー・セレスト号が運んでいた工業用アルコールは揮発性が高く、密閉された船倉内でガスが蓄積する可能性がありました。実際に空だった9樽は、他の樽と異なる素材(赤カシ)で作られており、漏洩しやすい構造だったことが判明しています。

2006年にロンドン大学のアンドレア・セラ教授が行った実験では、密閉空間でアルコール蒸気が引火した場合、炎は一瞬で燃え広がるものの、周囲の物体を焦がすことなく消えることが実証されました。つまり、爆発的な燃焼が起きても、明確な火災の痕跡を残さない可能性があるのです。船長がこの爆発を目撃し、さらなる大爆発を恐れて緊急退船を命じたとすれば、救命ボートの消失と航海計器の持ち出しが説明できます。

退船後の乗員たちの運命

仮にアルコール蒸気爆発説が正しいとして、救命ボートで脱出した乗員たちはその後どうなったのでしょうか。12月の北大西洋は海が荒れる時期であり、小さな救命ボートで生き延びることは極めて困難です。おそらく乗員たちは嵐に遭遇し、大西洋の冷たい海に沈んだと考えられています。

一説では、乗員たちは退船時にロープで本船とボートをつないでいた可能性があります。爆発の危険が去るまで距離をとり、安全が確認できたら本船に戻る計画だったのかもしれません。しかし荒天によりロープが切れてしまい、本船と離れ離れになった可能性が指摘されています。いずれにしても、10名の乗員の遺体は一人として発見されることはありませんでした。

メアリー・セレスト号のその後と呪われた船の伝説

事件後、メアリー・セレスト号は新しい船主のもとで運航を再開しましたが、不運が続きました。その後17回もオーナーが変わり、最後の船主ギルマン・C・パーカーは1885年にハイチ沖で故意に座礁させ、保険金詐欺を企てたとされています。パーカーはその後すぐに死亡し、共謀者も裁判前に命を落としました。呪われた船という評判は、こうした一連の不幸によってさらに強まったのです。

また、アーサー・コナン・ドイルが1884年に発表した短編小説がこの事件を題材にしたことで、メアリー・セレスト号の知名度は一気に高まりました。ただし小説には多くのフィクションが混ざっており、それが事実として広まってしまった部分もあります。食事がテーブルに温かいまま残されていたという有名な話も、実際の記録には存在しない創作である可能性が高いのです。

関連する都市伝説と幽霊船の系譜

メアリー・セレスト号事件以降、世界各地で幽霊船の報告が相次ぐようになりました。最も有名なのは、永遠に海をさまようとされるフライング・ダッチマン号の伝説です。この伝説自体は17世紀から存在していましたが、メアリー・セレスト号事件によって幽霊船への関心が一気に高まったとされています。

日本にも幽霊船の伝説は数多く残されています。江戸時代には「舟幽霊」と呼ばれる怪異が広く知られており、海上で遭遇すると水を汲む柄杓を求められるという話が各地に伝わっています。底の抜けた柄杓を渡さなければ船を沈められるという言い伝えは、海に生きる人々にとって切実な恐怖だったのでしょう。メアリー・セレスト号の謎は、海という広大で不可知な領域への根源的な恐怖を、現代の私たちに思い出させてくれるのです。

よくある質問(FAQ)

メアリー・セレスト号の乗員はどこへ消えたのですか?

最も有力な説では、積み荷のアルコール蒸気による爆発(または爆発の兆候)を察知した船長が緊急退船を命じ、救命ボートで脱出した後、荒天により遭難したと考えられています。10名全員の遺体は一人も発見されていません。

船内に暴力や犯罪の痕跡はあったのですか?

いいえ、船内に激しい暴力の痕跡は確認されませんでした。貴重品や私物もそのまま残されており、海賊や強盗による襲撃の可能性は低いと判断されています。

なぜ積み荷のアルコールが船に残されていたのですか?

1701樽中1692樽が無事だったことは、盗難が目的ではなかったことを強く示唆しています。空になっていた9樽は漏洩しやすい赤カシ材の樽であり、揮発によるガス蓄積が爆発説の根拠となっています。

メアリー・セレスト号は本当に呪われていたのですか?

科学的根拠はありませんが、事件後に17回もオーナーが変わり、最後は故意に座礁させられるなど、不運が続いたのは事実です。こうした経緯が呪われた船という伝説を生んだのでしょう。

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