シンヤだ。今夜はイギリス王室がらみの話をしようか。1997年、パリのトンネルで起きたあの事故――ダイアナ妃の死についてだ。事故で片づけるには引っかかる点が多すぎるって話、お前も一度は耳にしたことあるだろ?最近また新しい証言や資料が出てきてて、これがまた無視できない内容なんだよ。

ダイアナ妃の死は事故か陰謀か|科学的検証と残された疑問

1997年8月31日未明、ダイアナ元皇太子妃はパリ・アルマ橋トンネルで起きた交通事故で命を落とした。フランス当局もイギリス側の調査も「飲酒運転による事故」で決着をつけている。ところが四半世紀が過ぎた今も、この結論に納得していない人間は少なくない。公式見解と、それに異を唱える側の根拠を突き合わせてみたい。

📖 この話をもっと深く知りたい方へ PR

『日本現代怪異事典』(Amazon)
陰謀論から都市伝説まで現代の怪異を網羅

あの夜、何が起きたのか――時系列で振り返る

まず事実関係を整理しておこう。1997年8月30日の夜、ダイアナ妃とドディ・アルファイドはパリのリッツ・ホテルで食事をしていた。ホテルの正面にはパパラッチが大勢待ち構えていた。二人はパパラッチの目をかいくぐるために裏口から出発する計画を立てた。

午前0時20分頃、ホテル副支配人のアンリ・ポールがメルセデス・ベンツS280のハンドルを握り、裏口から出発した。助手席にはボディガードのトレバー・リース=ジョーンズ、後部座席にダイアナ妃とドディ・アルファイドが座っていた。車はセーヌ川沿いの道を走り、アルマ橋の地下トンネルに入った。

午前0時23分頃、車はトンネル内の13番目の柱に激突した。ドディ・アルファイドとアンリ・ポールは即死。ダイアナ妃は重傷を負いながらも当初は意識があったとされる。救急隊が到着したのは事故から約10分後だったが、ダイアナ妃がピティエ=サルペトリエール病院に到着したのは午前2時過ぎだった。そして午前4時、死亡が確認された。唯一の生存者はシートベルトを着用していたボディガードのリース=ジョーンズだけだった。

出発から事故まで、わずか3分足らず。この短い時間の中に、四半世紀にわたって議論され続ける謎が凝縮されている。

不思議な体験、気になりませんか? PR

公式調査が出した答え

フランス当局の捜査、そしてイギリス側が実施した「オペレーション・ペジェット」と呼ばれる大規模調査。この二つが導き出した結論はほぼ同じだった。運転手アンリ・ポールの血中アルコール濃度は法定限度の3倍以上に達しており、明らかな飲酒運転だった。加えて、ダイアナ妃を含む後部座席の同乗者はシートベルトを着けていなかった。パパラッチに追われて車はかなりの速度を出しており、トンネル内の柱に激突した。酔った運転手、ベルトなし、猛スピード――事故としての条件は揃っている。

オペレーション・ペジェットの詳細

イギリス警視庁(メトロポリタン・ポリス)が2004年から3年かけて行ったこの調査は、まさに大規模なものだった。約500人の証人に再聴取を行い、物理的証拠を最新の技術で再検証し、報告書は800ページ以上に及んだ。調査を指揮したジョン・スティーブンス卿は「陰謀の証拠は一切見つからなかった」と断言している。

アンリ・ポールの血液検査も複数回実施された。血中アルコール濃度は1リットルあたり1.74グラムで、フランスの法定限度である0.5グラムの3倍以上。さらに処方薬であるプロザック(抗うつ薬)とティアプリド(抗精神病薬)の成分も検出されている。アルコールとこれらの薬物の相互作用により、運転能力は著しく低下していたと考えられている。

車のスピードと衝突の物理

事故車両の速度については諸説あるが、公式調査では時速105キロメートル前後と推定されている。アルマ橋トンネルの制限速度は時速50キロ。倍以上のスピードで突っ込んだことになる。トンネル内はカーブしており、路面も若干傾斜していた。酔っ払いが倍速でカーブに突っ込めば、事故が起きないほうが不自然だ。

衝突時の衝撃はすさまじいものだった。メルセデスのフロント部分は完全に潰れ、エンジンは車内にめり込んだ。後部座席の二人はシートベルトを着けておらず、車内で激しく振り回された。シートベルトを着用していたリース=ジョーンズだけが生き延びたという事実は、この事故が物理的に説明可能なものであることを示している。

それでも消えない陰謀論

MI6が絡んでいたのか

元MI6エージェントのリチャード・トムリンソンが、ある証言をしている。MI6にはかつて、トンネル内で自動車事故を装って標的を殺害する計画が存在していた、というものだ。トンネルでの「事故」を偽装する手法が情報機関のマニュアルに載っていたとなれば、当然あの事故との関連を疑いたくなる。ただし、この計画はダイアナ妃を名指ししたものではない。あくまで別の作戦として立案されたもので、直接の証拠とは言い難い。偶然の一致と見るか、それとも手口の共通性に意味を見出すか。判断は分かれるところだ。

トムリンソンの証言には続きがある。彼によれば、その暗殺計画はセルビアの独裁者スロボダン・ミロシェビッチを標的としたもので、1992年に作成されたという。計画の概要は「対象者が乗った車がトンネルを通過する際、強い光を浴びせて運転手の視覚を奪い、事故を誘発する」というものだった。パリのトンネルで起きた事故との類似性は確かに気になる。ただし、MI6はこの計画の存在自体を否定しており、トムリンソン自身も機密漏洩の罪で収監された経歴を持つ人物だ。彼の証言の信頼性をどう評価するかは難しい問題だ。

「白いフィアット」の謎

事故直後から目撃者たちが口を揃えて証言していたのが、「白いフィアット・ウノ」の存在だ。複数の証人が、事故の直前にメルセデスと白い小型車が接触したのを見たと述べている。メルセデスの車体にも白い塗料の痕跡と、フィアット・ウノのテールランプの破片が発見されている。

この白いフィアットの持ち主は、長い間特定されなかった。フランス当局は後に、ジャン=ポール・「ジェームズ」・アンデルソンという人物が所有する白いフィアット・ウノを調査している。アンデルソンは元写真家で、一部ではパパラッチとの関連も指摘された。しかし彼のアリバイは完全には崩れず、車を直接事故と結びつける決定的な証拠は出てこなかった。2000年、アンデルソンは自宅で焼死体として発見された。公式には自殺とされている。

この白いフィアットが意図的にメルセデスの進路を妨害したのか、たまたまそこを走っていただけなのか。結局わからずじまいだ。だが、事故に関わった可能性のある車の持ち主が数年後に不審死しているという事実は、どうにも落ち着かない。

「強い閃光」の証言

事故を目撃した複数の人物が、トンネル内で強い閃光が発せられたと証言している。フランソワ・レヴィスターという目撃者は、「トンネルに入った直後、車内が強い白い光に包まれた」と述べた。この閃光がパパラッチのフラッシュだったのか、それとも別の何かだったのかは、今も確定していない。

先述のトムリンソンの証言を思い出してほしい。MI6の暗殺計画では「強い光で運転手の視覚を奪う」という手法が記されていた。目撃者の証言する「閃光」がその手法と一致するように見えるのは事実だ。ただし、パパラッチが何台ものバイクで追尾していた状況を考えれば、フラッシュの光が反射してトンネル内で増幅されたという説明も十分に成り立つ。暗いトンネルの中で強いフラッシュを浴びれば、たとえシラフの運転手でも一瞬の判断ミスを犯しうる。

王室にとって「不都合な恋愛」だったのか

事故当時、ダイアナ妃はエジプト系イギリス人の大富豪ドディ・アルファイドと交際していた。ドディの父モハメド・アルファイドは、息子とダイアナの関係が英国王室にとって受け入れがたいものだったから二人は殺されたのだ、と公然と訴え続けた。将来の国王の母親がムスリムの男性と再婚する可能性――王室がそれを脅威と感じたとしても不思議ではない、というのが彼の主張だ。しかし2008年に行われた法的調査(インクエスト)では、陪審員が「不法殺害」の証拠を認めなかった。モハメド・アルファイドは2023年にこの主張を撤回している。

ただ、この話にはもう少し深い背景がある。ダイアナ妃は離婚後、対人地雷廃絶キャンペーンに力を入れていた。1997年1月にはアンゴラを訪問し、地雷原を歩く姿が世界中に報じられた。このキャンペーンは武器産業、とりわけ地雷を製造・販売していた企業やそれを支援していた各国政府にとって、極めて都合の悪いものだった。ダイアナ妃という世界的な知名度を持つ人物が反地雷運動の顔となることで、武器ビジネスに対する国際的な圧力は急速に高まっていた。

実際、ダイアナ妃の死からわずか数か月後の1997年12月、対人地雷禁止条約(オタワ条約)が署名された。彼女の活動がこの条約の成立を後押ししたことは間違いない。もしダイアナ妃が生きていれば、さらに多くの武器規制運動に影響を与えていた可能性がある。この文脈を踏まえると、王室だけでなく軍産複合体にとっても彼女の存在は「不都合」だったのかもしれない、と考える者がいるのも理解はできる。

アンリ・ポールとは何者だったのか

運転手のアンリ・ポールについても、掘れば掘るほど奇妙な話が出てくる。彼はリッツ・ホテルの副支配人であり、正式な運転手ではなかった。本来、ダイアナ妃の車を運転するはずだったのは別の人物だったが、急遽アンリ・ポールが呼び戻されてハンドルを握ることになった。なぜこの変更が行われたのか、明確な説明はない。

さらに気になるのが、彼の銀行口座だ。事故後の調査で、アンリ・ポールの口座にはその収入では説明のつかない金額が入金されていたことが判明している。約17万ポンド、当時のレートで3000万円以上の資産が見つかった。リッツ・ホテルの副支配人の年収を考えれば、明らかに不自然な額だ。この金がどこから来たのか、フランス当局はチップの蓄えやホテルのボーナスだと結論づけたが、一部の調査者はフランスの情報機関DST(国土監視局)やMI6からの報酬だったのではないかと疑っている。

アンリ・ポールが情報機関と何らかのつながりを持っていたことは、複数の情報源が示唆している。リッツ・ホテルのような高級ホテルのセキュリティ担当者が、各国の情報機関と接点を持つこと自体は珍しくない。VIPの動向を把握する上で、こうした人物は貴重な情報源になるからだ。問題は、その関係があの夜の出来事にどう影響したのか、ということだ。

血液サンプルの取り違え疑惑

アンリ・ポールの飲酒を示す最大の証拠は血液検査の結果だが、この検査結果自体に疑義を唱える声もある。事故当夜、リッツ・ホテルのセキュリティカメラに映ったアンリ・ポールは、靴紐を結んだり機敏に動いたりしており、泥酔した人間の動きには見えないという指摘がある。法定限度の3倍のアルコールと薬物を摂取した人間が、あのように動けるものなのか。

さらに、血液サンプルの保管と検査の過程に不備があったのではないかという疑問も出されている。サンプルの一部が劣化していた可能性や、取り違えの可能性が指摘された。オペレーション・ペジェットはこれらの疑惑についても検証し、サンプルに問題はなかったと結論づけているが、初期のフランス側の検体管理に杜撰な面があったことは認めている。

救急対応の遅さという問題

陰謀論とは別の角度から、ダイアナ妃の死をめぐる重大な疑問がある。救急対応のスピードだ。事故発生から病院到着まで、1時間40分以上かかっている。パリ市内で、しかも事故現場から病院までの距離を考えれば、異常と言っていい時間だ。

フランスの救急システム(SAMU)は、イギリスやアメリカとは基本方針が異なる。英米では「できるだけ早く病院に運ぶ」ことを優先するが、フランスでは「現場で可能な限りの処置を行ってから搬送する」という方針をとる。つまり、救急車の中で医師が治療を行いながらゆっくり搬送するのがフランス式だ。ダイアナ妃のケースでもこの方針が適用され、現場と救急車内での処置に多くの時間が費やされた。

だが、ダイアナ妃の傷は肺静脈の断裂だった。大量の内出血を起こしており、外科手術以外に止血の手段はなかった。こうした症例では一刻も早い手術が求められる。現場での処置に時間をかけるフランス式のアプローチが、結果的にダイアナ妃の生存確率を下げたのではないかという批判は、医療関係者の間でも根強い。

さらに、搬送中の救急車がピティエ=サルペトリエール病院ではなく、より近い軍のヴァル=ド=グラース病院を通り過ぎたという事実も指摘される。SAMUのチームは、ピティエ=サルペトリエールの設備のほうが適切だと判断したと説明しているが、距離的にはヴァル=ド=グラースのほうが近かった。数分の差が生死を分けうる状況で、なぜ遠い病院を選んだのか。合理的な判断だったのか、それとも何らかの意図があったのか。

パパラッチの罪と免罪

事故直後、パパラッチたちは一斉に非難の矢面に立たされた。追い回した結果の事故だと世界中が怒った。実際、メルセデスを追っていたバイクは複数台確認されており、カメラマンたちは事故直後の現場でもシャッターを切り続けていた。瀕死のダイアナ妃にレンズを向ける姿は、世界中の怒りを買った。

ところが最終的に、パパラッチに対する刑事責任は問われなかった。フランスの裁判所は、パパラッチの追跡が事故の直接原因ではないと判断したのだ。確かに、酔っ払いが運転していた以上、パパラッチがいなくても事故が起きた可能性はある。だが、パパラッチの存在がなければ裏口からの脱出も、スピードの出しすぎも、そもそもアンリ・ポールが急遽運転手に起用されることもなかった。パパラッチの追跡は事故の「原因」ではないかもしれないが、事故を誘発した「条件」であったことは間違いない。

ダイアナ妃自身の「予感」

あまり知られていないが、ダイアナ妃は生前、自分の命が狙われていると感じていたことを複数の人物に打ち明けている。もっとも有名なのは、元執事ポール・バレルに宛てた手紙だ。そこには「私の車にブレーキの不具合を仕込んで、交通事故に見せかけて殺す計画がある」と記されていたという。この手紙が書かれたのは事故の約10か月前、1996年10月のことだ。

手紙の存在は2003年に初めて公にされた。内容があまりにも事故の状況と符合するため、大きな衝撃を与えた。ただし、ダイアナ妃が具体的に誰の計画かを明記していたかどうかは議論がある。バレルの証言では特定の人物の名前が挙がっていたとされるが、法廷では部分的にしか開示されなかった。

冷静に考えれば、離婚後のダイアナ妃が精神的に不安定な時期にあったことは知られている。被害妄想の一種だった可能性もゼロではない。しかし、「自動車事故を装った暗殺」を予言するかのような手紙が実際に存在し、そして実際に自動車事故で亡くなったという事実の組み合わせは、偶然として片づけるには気味が悪すぎる。

防犯カメラ映像の不在

現代の都市で大きな交通事故が起きれば、防犯カメラの映像が決定的な証拠になることが多い。ところが、アルマ橋トンネル内外の防犯カメラは事故当時、ほとんどが機能していなかったとされている。パリ市内の主要道路沿いのカメラが、その夜に限って動いていなかった。

これについて当局は、当時のパリの防犯カメラシステムはまだ整備途上であり、多くのカメラが故障中だったと説明している。1997年のパリと現在を同列に考えるべきではないという主張には一理ある。しかし陰謀論者にとっては、もっとも重要な場所のカメラがもっとも重要な夜に動いていなかったという「偶然」は、到底受け入れがたいものだった。

2008年のインクエスト――法廷が下した最終判断

2008年4月、ロンドンの高等法院で行われたインクエスト(死因審問)は、約6か月にわたる審理の末、最終的な評決を下した。陪審員は「運転手アンリ・ポールの重大な過失および追跡車両(パパラッチ)による不法殺害」という評決を出した。つまり、陰謀や暗殺ではなく、飲酒運転とパパラッチの追跡による事故死という結論だ。

ただし注目すべきは、陪審員が単純な「事故死」ではなく「不法殺害」という表現を選んだことだ。これはアンリ・ポールの飲酒運転とパパラッチの行為に過失があったことを認定するものであり、完全な事故でも計画的な殺害でもない、中間的な判断だった。陪審員自身も、この事件の全容が単純には割り切れないことを感じていたのかもしれない。

世界各国の反応と陰謀論の広がり

ダイアナ妃の死は、イギリスだけでなく世界中に衝撃を与えた。葬儀はウェストミンスター寺院で行われ、テレビ中継の視聴者数は全世界で推定25億人に達したとされる。これは当時としては史上最大規模の放送イベントだった。

そして、その悲しみの大きさに比例するように、陰謀論も世界中に広がった。アメリカ、フランス、中東、アジア――各地で独自の解釈が生まれ、書籍やドキュメンタリーが次々と制作された。興味深いのは、国や文化によって陰謀論の「力点」が異なることだ。イギリス国内では王室の関与が中心的に論じられ、中東ではドディがムスリムだったことから宗教差別の文脈で語られることが多い。アメリカでは情報機関の暗躍という切り口が好まれた。同じ事件を見ていても、人は自分たちの社会が抱える不安や不信を投影するものだ。

なぜ陰謀論は消えないのか

なぜダイアナ妃の死にこれほど陰謀論がつきまとうのか。おそらくそれは、世界中から愛されたあの人の死が「ただの交通事故」だったという事実を、多くの人が感情的に受け入れられないからだろう。あれだけの存在感を持った人間が、酔っ払いの運転する車に乗っていたせいで死んだ。その落差があまりにも大きくて、どこかにもっと大きな力が働いていたはずだと考えたくなる。陰謀論の根っこにあるのは、証拠というより、そういう感情なのかもしれない。

心理学者たちはこれを「比例バイアス」と呼ぶ。大きな出来事には大きな原因があるはずだと人間は直感的に感じる。一国の元皇太子妃の死が、単なる飲酒運転事故だったという説明は、出来事の規模に対して原因が小さすぎると感じられてしまう。だから人は、もっと大きな力――王室の陰謀、情報機関の暗躍――を「原因」として求めるのだ。

もう一つの要因は、権力に対する不信感だ。王室、政府、情報機関といった権力組織がこれまで隠蔽や嘘を行ってきた実績は、歴史が証明している。イラク戦争の大量破壊兵器、NSAの大規模監視、数々のスキャンダル。「彼らなら、やりかねない」と思わせるだけの前例が積み重なっているのだ。ダイアナ妃の陰謀論が説得力を持つのは、証拠が強いからではなく、権力側の信用がそれだけ低いからだ。

ダイアナ妃が遺したもの

陰謀があったのかなかったのか。正直に言えば、今ある証拠だけでは確定的なことは何も言えない。公式調査の結論には合理性がある。一方で、説明のつかない細部が残っていることも事実だ。白いフィアット、閃光の証言、防犯カメラの不在、アンリ・ポールの不可解な資産、ダイアナ妃自身の「予感」の手紙――これらはそれぞれ個別には反論可能だが、すべてが「たまたま」で片づくのかという疑問は残る。

確実に言えることが一つある。ダイアナ妃の死によって、彼女が取り組んでいた対人地雷廃絶運動は世界的な注目を集め、その死から数か月後にオタワ条約が成立した。HIV/AIDSに対する偏見と闘い、患者に素手で触れた彼女の姿は、世界中の認識を変えた。ホームレスや貧困層への支援活動は、王室のあり方そのものに疑問を投げかけた。

死後四半世紀を経てもなお彼女が語り続けられるのは、陰謀論のためだけではない。彼女が生きている間に見せた勇気と人間味が、人々の記憶に深く刻まれているからだ。

公式には「事故」で決着がついてる。でも、あの夜のトンネルに何か別のものがあったんじゃないかって気配は、どうにも消えないんだよな。白いフィアット、トンネルの閃光、ダイアナ自身が書き残した手紙――一つ一つは説明がつくかもしれない。でも全部まとめて「偶然」で片づけるのは、正直俺にはちょっと難しい。真実がどこにあるのか、それはたぶん、あのトンネルの暗闇の中に沈んだままだ。気になったやつは自分でも掘ってみてくれ。じゃ、またな。シンヤでした。

この記事を読んで気 になることがあったら… PR

【スポンサードリンク】

都市伝説を“映像で”見ると、印象は変わります。
ABEMAでは「ナオキマンの都市伝説ワイドショー」などの番組も配信中。
活字だけでは物足りない方は、一度チェックしてみてください。

 

おすすめの記事