修験道の「入峰修行」で何が見えるか|山岳修行者の神秘体験の記録
山の中で、人は何かを見る。
それが幻覚なのか、本物の「何か」なのかはわからない。でも、何百年も前から、山に入った修行者たちは口をそろえて言ってきた。「見た」と。「聞こえた」と。「会った」と。
修験道(しゅげんどう)という宗教がある。山に入り、断食し、滝に打たれ、極限まで肉体を追い込む。そうすることで「悟り」を開き、霊的な力を得るとされてきた修行の道だ。
その中心にあるのが「入峰修行(にゅうぶしゅぎょう)」。文字通り、山の峰に入っていく修行のことだ。
今回は、この入峰修行の中で修行者たちが体験したとされる不思議な出来事を集めた。現代の修行者の証言、古い記録、民俗学の視点から読み解いたもの。どれが本当でどれがそうでないか、判断するのはあなた自身に委ねたい。
ただひとつ言えるのは、「山は人を変える」ということだ。
修験道と「入峰修行」とは何か
まず基本的な説明から入りたい。
修験道は、日本独自の宗教だ。仏教や神道、道教、古来の山岳信仰が混ざり合って生まれた。開祖とされるのは「役行者(えんのぎょうじゃ)」、役小角(えんのおづぬ)という人物で、7世紀ごろの人とされている。
修験道を実践する人を「修験者(しゅげんじゃ)」あるいは「山伏(やまぶし)」と呼ぶ。白装束に法螺貝(ほらがい)、特殊な頭巾という独特のスタイルでおなじみかもしれない。
「入峰修行」とは、神聖な山に入って一定期間修行することを指す。有名な場所としては、吉野・大峯山(奈良)、出羽三山(山形)、英彦山(福岡)などがある。これらはすべて「霊山(れいざん)」と呼ばれ、古来から神や仏が宿る場所として信仰されてきた。
修行の内容は山によって違うが、共通しているのは「過酷さ」だ。
- 何日もかけて険しい山道を歩く
- 食事を極端に制限する(断食に近いこともある)
- 滝に打たれる(滝行)
- 火を渡る(護摩行)
- 断崖絶壁で宙吊りになる(逆さ吊り)
- 真夜中に洞窟の中で一人座る
こういった極限状態に身を置くことで、修行者は「何か」を体験するとされてきた。
それが霊的な体験なのか、それとも肉体的・精神的な極限から来る変性意識なのか。そこには今も議論がある。
「逆さ吊り」という修行は、特に有名だ。修行者は両手を後ろに縛られ、断崖から頭を下にして吊るされる。眼下に広がるのは深い谷。先達(指導者)は問う。「今まで隠してきた罪を白状せよ」と。生死の境目に立たされた修行者は、涙を流しながら懺悔するという。その極限の瞬間に、「何かが降ってきた」という体験を語る人が後を絶たない。
また、大峯山の「西の覗き(にしののぞき)」という場所は、今でも多くの参拝者が体験できる場所として知られている。実際に崖の先端から吊るされる体験をした人たちが、「あの瞬間、自分が透き通るような感覚があった」「死の恐怖の中で、逆に何かが見えた気がした」という感想を残している。
修験道の歴史と「神秘体験」の記録
入峰修行の歴史は、1300年以上にわたる。その長い年月の中で、無数の神秘体験が記録されてきた。
最も有名なのは、開祖・役行者にまつわる話だ。
役行者は大峯山で修行中、「前鬼・後鬼(ぜんき・ごき)」という鬼を調伏(ちょうぶく。悪いものをおさめること)したという伝説がある。また、山中で「蔵王権現(ざおうごんげん)」という神仏混合の存在を呼び出したとも伝えられている。
これが伝説であることは確かだが、興味深いのはその「描写の具体性」だ。蔵王権現は青い肌で、右足を上げて岩の上に立っているとされる。役行者が金峯山寺(きんぷせんじ)で見たとされるその姿は、今でも秘仏として祀られている。
役行者が本当に何かを「見た」のかどうかは証明できない。ただ、あれほど具体的な形で伝わっているということは、何らかの強烈な体験があったことを示しているともいえる。
時代が下って江戸時代になると、修験道の記録が増える。山伏たちは修行中の体験を記録に残すようになり、その中にはかなり奇妙な内容も含まれていた。
・夜中に山道を歩いていると、自分の前を「白い服を着た人」が歩いていた。追いかけたが、いつの間にか消えていた。
・洞窟の中で座っていると、外から「声」が聞こえた。言葉ではなかったが、何かを伝えようとしているようだった。
・断食修行の3日目に、山全体が光を放って見えた。
こういった記録が、複数の文書に残っている。
特に出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)には、「即身仏(そくしんぶつ)」の伝統がある。生きたまま土の中に入り、死後も「仏」として祀られるという、世界的に見ても珍しい風習だ。即身仏になった修行者たちの中にも、修行中に「異次元の存在」と会ったと語っていたとされる人物が複数いるという。
記録の中でも特に印象的なのが、江戸時代中期に書かれたとされる一山伏の日記だ。大峯山の修行中に記されたその日記には、次のような一節がある。「夜半、岩陰に人の気配あり。振り返れど誰もおらず。しかして確かに息遣いあり。その気配は夜明けまで消えなかった」。日記はその後、「これは試練である」と締めくくられている。ただの恐怖ではなく、何かの意味があると受け止めようとした、修行者の精神が見える記述だ。
英彦山(ひこさん)の記録にも面白いものがある。英彦山は九州北部に位置する霊山で、かつては2000人以上の山伏が住んでいたとされる修験道の一大拠点だった。そこに残る記録の中に「山鳴りの夜は特別な体験をしやすい」という言及がある。岩が軋む音、風が木々を揺らす音。それらが特定のリズムで重なったとき、修行者は「山が話しかけてくる」と感じることがあったという。
修行者たちの証言|現代の入峰修行で何が起きているか
「昔の話」だけではない。現代でも入峰修行は続いており、体験者たちの証言は少なくない。
ここでは、修験道の修行者や、体験者が語ったとされる証言をいくつか紹介したい。いずれも「そういう話がある」という前提で読んでほしい。
証言①「声を聞いた」修行者の話
大峯山で修行経験を持つ、現代の山伏の一人が語ったとされる話だ。
彼が修行に入って5日目のことだった。水と少量の食事だけで険しい道を歩き続け、体力も限界に近づいていた。夜明け前の暗い山道を歩いていると、突然、後ろから名前を呼ばれた気がしたという。
振り返っても誰もいない。同行していた他の修行者に聞いても、全員が「何も言っていない」と答えた。
「幻聴だったかもしれない」と彼は言う。「でも、ただの幻聴ではなかった。声には温度があった。冷たい声でも暖かい声でもなく、なんというか……中立的な、感情のない声だった。それが逆に怖かった」
この種の「声を聞いた」という体験は、大峯山の修行者の間では珍しくないとも言われている。
彼はその後もう一度、修行の9日目にも同じような体験をしたという。今度は声ではなく、「音」だった。まるで石と石をぶつけ合わせたような、カンカンという規則的な音が、前方の暗闇の中から聞こえてきた。他の修行者も全員が聞こえたと言った。だが、誰も先頭を歩こうとしなかった。先達だけが「行くぞ」と静かに言って、一歩踏み出した。音はその瞬間にぴたりと止んだという。
証言②「光る存在」を見た体験
出羽三山の修行に参加したある30代の男性の話だ。彼は修験道の信者というわけではなく、「経験として」参加した一般人だったという。
修行2日目の深夜、山の中の小屋で目を覚ました。外がなぜか明るく感じたので窓から見ると、木々の間に「光の塊」のようなものが見えたという。
ぼんやりとした白い光で、人の形をしているようにも見えたが、はっきりはしなかった。10秒ほど見ていると、ゆっくりと木の間に消えていったという。
「山の獣だったのかもしれない」と彼は言う。「でも、動き方が変だった。音がしなかったし、地面から少し浮いているように見えた」
彼は翌朝、同室の別の参加者にこの話をした。すると驚いたことに、その人物も「夜中に何か光るものが外を通るのを見た」と言ったという。
さらに興味深いことがある。指導役の山伏にその話をすると、彼は特に驚いた様子もなく言ったという。「出羽三山ではよくあることです。何年もここで修行していると、必ず一度は見る人がいる」と。そして「あれが何なのかは教えられません。でも怖がる必要はない。あちらはこちらを傷つけません」とだけ語ったという。
証言③「時間がなくなった」断食修行の記録
修験道の断食修行(「五穀断ち」などと呼ばれる)を経験した女性の話だ。
3日間の断食修行の最終日、彼女は「時間の感覚が完全に消えた」と語っている。座って瞑想していたはずなのに、気づくと外が暗くなっていた。自分では「30分ほど」だと思っていた時間が、実際には6時間以上経っていたという。
「その間の記憶がないわけじゃない」と彼女は言う。「でも、思い出そうとすると霧がかかっているみたいで、うまく出てこない。強い光を見たような気がするのだけど、それが何だったのかがわからない」
この「時間消失感覚」は、断食や極度の疲労による解離状態として説明できるとも言われている。だが当事者にとっては、そういう言葉では片付けられない体験だったようだ。
彼女がさらに語ったことがある。時間の消えた6時間の間、「誰かと話していた気がする」というのだ。内容は覚えていない。声も顔もわからない。ただ、「何かと対話していた」という確かな感覚だけが残っていた。修行が終わって下山したとき、彼女は涙が止まらなかったという。なぜ泣いているのかも、自分ではわからなかった。
証言④「先達(せんだつ)」が語った異次元の話
修験道では、修行の先達(指導者)の言葉は非常に重く扱われる。長年修行を積んだある先達が、弟子たちに語ったとされる話がある。
「山には層がある」と彼は言ったという。「私たちが普段歩いているのは、一番外側の層だ。修行が深まると、内側の層が見えてくる。そこには別の何かがいる。神仏なのか、それとも別の何かなのかはわからない。でも確かにいる」
弟子の一人がそれを見たことがあるかと聞くと、先達は少し間を置いて答えたという。
「見たことがある。でも、これは言葉で伝えられるものじゃない。見た人間だけが知っている」
それ以上の説明はなかったという。
証言⑤「山が自分を選んだ」という感覚
これは少し毛色の違う話だ。英彦山で修行した50代の男性の証言だ。
彼は元々、宗教とは全く縁のない生活を送っていた。会社員として働き、特に信仰を持たずに生きてきた。ある日、偶然テレビで修験道の特集を見て「なぜか心が動いた」という。理由は自分でもわからなかった。
体験修行に申し込み、英彦山に入った。修行3日目の夕方、一人で山道を歩いていたとき、突然「ここだ」という感覚が全身を走ったという。何が「ここ」なのか、自分でもわからなかった。でも足が自然と止まった。
その場所は、岩がちょうど人がひとり収まるくらいの空間を作っていた。彼はなんとなく、その岩の窪みに背を預けて座った。次の瞬間、「涙が勝手に出てきた」という。
「悲しいとか、感動したとかじゃなかった。涙が出ているのに感情がなかった。体が何かを放出しているような感じだった」と彼は語っている。
下山後、指導の山伏にその場所について話すと、「そこは昔から特別な場所として知られている」と言われたという。彼は事前にそのことを全く知らなかった。
証言⑥「同じ夢を見た」複数の修行者たち
これは個人の体験ではなく、集団体験の記録だ。大峯山で10日間の修行を共にしたグループの話とされている。
修行の7日目の朝、朝の読経が終わったあとで、グループのひとりが「昨夜、変な夢を見た」と話した。内容は「巨大な木の前に立っていて、その木が動いた」というものだった。
すると、別の修行者が顔色を変えて言ったという。「自分も同じ夢を見た」と。
確認すると、その場にいた6人のうち4人が、細部は違うが「巨大な木と向き合う夢」を見ていた。それぞれが見た木の種類や雰囲気は少しずつ異なっていたが、「木が動いた」または「木が何かを言おうとしていた」という点は全員に共通していたという。
先達はこれを聞いて「それが修行というものです」とだけ答えた。何の説明もしなかった。
科学と民俗学から読み解く「山の神秘体験」
こういった体験は、どう説明できるのだろうか。
現代の科学や民俗学は、いくつかの視点を提供してくれる。
極限状態と「変性意識」
まず医学的・神経科学的な観点から言うと、断食・極度の疲労・睡眠不足・脱水が組み合わさると、人間の脳は「変性意識状態(へんせいいしきじょうたい)」に入ることがある。
変性意識とは、通常とは異なる意識の状態のこと。夢と現実の境界が曖昧になり、幻覚や幻聴が生じることがある。また、「自分が自分でない」という離人感や、「すべてとつながっている」という感覚が生まれることもある。
修験道の修行は、まるでこの変性意識を意図的に引き出すためにデザインされているかのようだ。断食、睡眠制限、極度の運動、孤独、反復的な読経やマントラ。これらはいずれも、意識の変容を促す要素として知られている。
つまり、修行者が「光を見た」「声を聞いた」という体験の一部は、脳の生理学的な変化によるものと考えることもできる。
ただし、これで「すべてが説明できる」わけではない。なぜなら、複数の修行者が「同じものを見た」という報告があるからだ。個人の脳の変化によるものなら、見えるものはバラバラになるはずだが、修行者たちはしばしば「似たような体験」をしているとも言われている。
神経科学者のアンドリュー・ニューバーグは、瞑想や宗教体験中の脳活動を測定する研究を行ってきた。彼の研究では、深い瞑想状態に入ったとき、脳の「自己と他者の境界を認識する部位」の活動が著しく低下することが確認されている。つまり、「自分と世界の境界が消える」という体験は、神秘でもなんでもなく、脳の特定の部位が一時的に機能を落とすことで生じる、ということだ。修験道の修行は、まさにその状態を繰り返し、より深く引き起こす訓練だとも言える。
山岳信仰と「異界」の概念
民俗学の観点から見ると、山は古来から「異界(いかい)」とされてきた。
柳田国男(やなぎたくにお)は日本民俗学の父とも呼ばれる学者で、山と異界の関係について多くの考察を残している。彼の研究によれば、日本人にとって山は「死者の世界」や「神の世界」と接している場所だという認識が長くあったという。
たとえば、「死んだ人は山に帰る」という考え方は日本各地に残っている。お盆に山から先祖が下りてきて、また山へ帰るという観念もそのひとつだ。
修験道の山は、まさにこの「異界の入口」として選ばれた場所でもある。吉野・大峯山は「あの世への入口」とも言われ、実際に「死の擬似体験」を修行に取り入れていた時期もあった。
こういった文化的・宗教的な前提の中に身を置くことで、修行者たちは「体験すべき何か」を体験しやすい状態になるとも考えられる。心理学では「期待効果」という言葉もある。信じていれば、見えやすくなる、ということだ。
さらに興味深いのは、「異界」の描写が文化を超えて似通っているという点だ。日本の修行者が語る「光の存在」「声」「時間の消失感覚」は、ネイティブアメリカンのビジョンクエストや、アボリジニの「夢の時間」、南米のシャーマン儀式で報告される体験と、驚くほど共通点が多い。宗教や文化が全く異なるのに、人間が「神秘的な体験」として受け取るものの形は、世界中で似ているのだ。
「場の力」という考え方
一方で、場所そのものが何らかの影響を与えているという考え方もある。
いくつかの研究では、特定の地形(深い谷、大きな岩盤、磁気の強い地域など)が人間の知覚に影響を与える可能性が示唆されている。たとえば、地磁気の変動が強い場所では、一部の人が「誰かに見られている感覚」「時間がゆっくり流れる感覚」を体験するという報告がある。
修験道の霊山の多くは、地質学的に特殊な場所でもある。大峯山系は花崗岩(かこうがん)の山が多く、出羽三山は火山活動の名残を持つ地形だ。こういった場所に特有の地磁気や、地下から発生するガスなどが、人間の感覚に影響を与えている可能性はゼロではないともいわれている。
もちろん、これは仮説の域を出ない。でも「場所によって人の感覚が変わる」という経験は、多くの人が持っているはずだ。
カナダのニューロサイエンティスト、マイケル・パーシンガーは「地磁気ヘルメット」という実験装置を開発した。特定の弱い電磁場を脳の側頭葉に当てると、被験者の多くが「誰かがそこにいる感覚」「霊的な存在への感覚」を報告したという。この研究は後に再現性が問われ、まだ議論の余地があるが、「電磁気が意識に干渉する可能性」という点は、修験道の霊山に特殊な地磁気環境があるとすれば、無視できない視点になる。
「伝承」として受け継がれてきたことの意味
民俗学者の折口信夫(おりくちしのぶ)は、日本の霊的伝承について「それは事実かどうかではなく、何を伝えてきたかが重要だ」と述べたという。
修験道の神秘体験が1300年以上にわたって語り継がれてきた事実は、それ自体として意味を持つ。人は「何もない話」を何百年も伝えない。何らかの強烈な体験が、繰り返し起こり続けたからこそ、伝承として生き残っているとも言えるからだ。
さらに言えば、修験道は「体験しないと理解できない」宗教だという点がある。経典を読めばわかる、というものではない。山に入り、過酷な修行をし、自分の身体を通して何かを感じることが、この信仰の核心にある。だから、修行者が「見た」「聞こえた」と語るとき、それは単なる都市伝説の流布ではなく、直接体験の継承なのだ。その点が、修験道の神秘体験談を他の怪談と区別する大きな特徴とも言える。
「入峰修行」の具体的な行程|何がそこまで人を追い込むのか
修験道の神秘体験を語るとき、修行そのものの過酷さをもう少し具体的に伝えておきたい。
たとえば、大峯山の奥駈道(おくがけみち)という修行ルートがある。吉野から熊野まで、大峯山系を縦断する全長約170キロメートルの山道だ。これを修行者たちは10日前後で踏破する。
途中に設けられた「靡(なびき)」と呼ばれる75か所の修行場を、一か所ずつ経巡る。それぞれの靡では、特定の読経や儀式をこなさなければならない。宿泊は山小屋や野営。食事は一日2食程度で、内容も質素なものに限られる。
歩く距離は一日20〜25キロに及ぶ日もある。しかも険しい岩場や、鎖を使って登降する崖が随所に現れる。雨が降っても止まれない。夜が来ても歩き続けることもある。
この行程の中盤から後半にかけて、多くの修行者が「変化」を感じ始めるという。足の痛みがいつの間にか消えている。疲れているはずなのに眠気がない。頭の中が静かになっていく。そして何日かが過ぎると、あるとき「何かと一緒に歩いている気がする」という感覚が訪れるとも言われている。
出羽三山では「秋の峰(あきのみね)」という9泊10日の修行がある。その内容の一部はいまだに非公開で、外部には伝えられていない。参加した修行者が語るのは「9日目の夜に何かが起きる」ということだけだ。それが何なのかを聞こうとすると、全員が首を横に振るという。
なぜ今でも「入峰修行」に人が集まるのか
現代は科学が発達し、情報があふれている。それでも、入峰修行に参加する人は年々増えているともいわれている。なぜだろうか。
「答えのない問い」を求めて
現代の人が山に入る理由のひとつは、「日常では得られない何か」を求めているからかもしれない。
スマホがあれば、ほとんどの情報にアクセスできる時代だ。でも、それと引き換えに「本当にわからないこと」が減った。すべてに答えがあるように見えて、実は自分の「実感」を伴わない答えばかりに囲まれている。
修験道の修行は、その逆をいく。過酷な環境の中で、自分の体と心だけを頼りにする。誰もスマホで調べてくれない。師匠に聞いても「自分で体験しろ」としか言われない。
そういう状況の中で、人は久しぶりに「本当にわからない何か」と向き合うことになる。そしてその中で、時に「見えないはずのもの」が見えてくる。
「極限の自分」を知りたい
もうひとつの理由は、自分自身の極限を知りたいという欲求だ。
断食修行に参加した経験者の多くが、「自分がどこまで耐えられるかを知りたかった」と語っている。現代の日常生活では、自分の限界まで追い込まれる機会はほとんどない。
でも修験道の修行は、容赦なく追い込んでくる。食事を減らし、歩かせ、眠らせない。そこで何かを見るかどうかは別として、「自分の知らない自分」に出会うことは多いようだ。
ある体験者が言った言葉が印象に残っている。「修行が終わって下山したとき、自分が新品の人間になったような感覚があった。古い自分は山に置いてきた、という感じ」。霊的体験の有無とは別のところで、修験道の修行は人間の何かをリセットするらしい。
「霊的体験」への純粋な好奇心
そして、オカルトや不思議な体験に興味がある人にとっては、修験道はある種の「公式ルート」でもある。
「お化け屋敷」や「心霊スポット」は演出や作り物が混じっている。でも修験道の修行は、千年以上続いてきた本物の実践だ。その中で「何かを見た」という報告が積み重なっている事実は、オカルト的な興味を引く十分な理由になる。
実際、近年では修験道体験ツアーや、一般人向けの修行体験プログラムを提供するお寺や修験道団体が増えている。参加者の中には、怖いもの見たさで参加したが「思ったより本格的で驚いた」という感想を持つ人も多いという。
ただし、安易な好奇心だけで参加すると痛い目にあうことも少なくない。滝行中に体が動かなくなった人、修行後に数日間高熱が続いた人、山に入ってから精神的な不調が続いたという人の話もある。「山は体力に自信があればいい、というわけじゃない」と語る先達の言葉は、重い。
「山」そのものが持つ力
最後に、単純に「山は人間を変える」という事実がある。
険しい自然の中に長時間いると、人は変わる。これは修験道に限らず、登山や野外活動を経験した人なら誰でも感じることだろう。都会での自分とは別の何かが顔を出す感覚。静寂の中で聞こえてくる何か。木々の間から差し込む光の神秘さ。
修験道の修行は、そういった山の力を最大限に引き出すための「装置」として機能しているとも言えるかもしれない。
山の中には、普段の生活では得られない「静寂」がある。本当の静寂というものを、現代人はほとんど体験したことがない。無音に近い環境に置かれると、人間の脳は自分自身の内部の「音」を拾い始める。心臓の音、血が流れる音、普段は意識しない体の様々なリズム。そしてそこに、長時間の歩行による瞑想状態が重なると、意識は普段とは全く異なる場所へと移行していく。
もし体験したいなら|入峰修行への実際の参加方法
「実際に体験してみたい」と思う人のために、少し実際的な話もしておきたい。
修験道の修行は、一般人でも参加できるプログラムが各地にある。本格的な奥駈道のような長期修行ではなく、1日から数日で体験できる短期修行だ。
たとえば、奈良の金峯山寺(きんぷせんじ)では一般向けの法螺貝修行や滝行体験を行っている。山形の出羽三山では、羽黒山の宿坊に泊まりながら山伏体験ができるプログラムがある。福岡の英彦山でも、修行体験ができる寺院がある。
体験に参加した人たちの感想を聞くと、「思っていたより精神的にきつかった」という声が多い。体力的な問題より、「自分と向き合う時間が想像以上に多かった」ということらしい。余計なことを考えないようにしていても、歩いている間、滝に打たれている間、じっと座っている間に、様々な思いや感情が浮かんでくる。それが修行の一部でもあるようだ。
一方で「何も見えなかった、何も起きなかった」という感想を持つ人も当然いる。それはそれで、おそらく修行の正直な結果だ。「何かを見よう」と期待して行くと、たいてい何も起きない、という話も伝わっている。
「山は、準備ができた人間にだけ何かを見せる」という言葉が、修験道の世界には古くから伝わっているそうだ。その「準備」が何を意味するのかは、入ってみた人にしかわからない。
まとめ|山は何を見せるのか
修験道の入峰修行について、様々な角度から見てきた。
結論を出すのは難しい。それが霊的な体験なのか、脳の生理的な変化なのか、文化的な期待効果なのか。おそらくその全部が、複雑に絡み合っているのだろう。
ひとつだけ言えるのは、「何も起きない」ということはないということだ。
入峰修行を経験した人の多くが、何らかの変化を体験している。それが霊的なものでなくても、「自分が変わった」「何かが見えた気がした」「言葉にならない体験をした」と感じている。
そして、1300年という歴史の中で、無数の人々が同じ山に入り、同じように何かを感じてきた。その積み重なりが、山をさらに「特別な場所」にしているとも言えるかもしれない。
「見えた」と語ってきた人たちを、単に「疲れていたからだ」と言い切ることは簡単だ。でも、それで終わらせていいのかという疑問も残る。修行者たちは疲れと空腹の中でそれを見た。だとしたら、それが「幻覚」であっても「本物」であっても、彼らにとってその体験が現実だったことに変わりはない。そして1300年の間、その「現実」が受け継がれてきた。
山は答えを教えてくれない。でも、問いを与えてくれる場所ではあるようだ。
「何が見えるか」より「何を感じるか」。それが修験道の入峰修行の核心なのかもしれない。
あなたはもし機会があったら、山に入ってみたいと思うだろうか。
答えは、山の中にしかないのかもしれない。
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