よう、シンヤだ。お前も一度は観たことあるだろ、あの有名なホラー映画。でもあの話、実際にあった悪魔祓いが元になってるって知ってたか。映画よりも生々しい、本当にあった出来事の話を今夜はしようと思う。

映画「エクソシスト」の実話|1949年の悪魔祓い事件

1973年に公開された映画「エクソシスト」。あれ、実は1949年にメリーランド州で本当に起きた悪魔祓いをもとに作られてる。「ロランド・ドウ」という仮名で記録された14歳の少年に何が起きていたのか。映画の話と切り離して、できるだけ事実だけを追ってみる。

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事件の発端|おばさんとウィジャボードの話

少年には「ハリエット」という叔母がいた。霊的なものへの関心が強い人で、ウィジャボード(日本でいう「こっくりさん」に近い降霊術のための道具)に熱中していた。その叔母が少年にウィジャボードの使い方を教えた。

ところが1949年の1月、その叔母が突然亡くなる。

少年にとって叔母は大切な存在だった。その死を悲しみながら、彼はひとりでウィジャボードを続けていた。そしてそのしばらく後から、不思議なことが起き始める。

最初は「家具が動く音がする」くらいの話だった。でも徐々にエスカレートしていった。ベッドが揺れる。物が飛ぶ。少年の体に引っかき傷のような跡が浮き出てくる。家族はパニックになり、まず地元のプロテスタントの牧師に相談した。牧師も実際に現場を目撃し、混乱した末にカトリックの神父を紹介したという。

ウィジャボードとはどんな道具か

ここで少し補足しておく。ウィジャボードというのは、19世紀後半のアメリカで生まれた「霊との交信ツール」として売り出された遊び道具だ。アルファベットと数字が書かれた板の上に、小さなプランシェットという三脚型の指示板を置いて、複数人で軽く指を乗せる。「霊が文字を指し示す」という設定で遊ぶ。

1890年代にはすでに商品として流通していて、第一次世界大戦後に大流行した。戦死者が多く出た時代に「死者と話したい」という需要が高まったせいだという話がある。面白いのは、ウィジャボードはもともと霊的なものとは無関係に、純粋に「おもちゃ」として特許を取っていたことだ。製造元は「あくまで娯楽です」というスタンスを崩さなかった。

科学的に見ると、プランシェットが動くのは「観念運動効果」と呼ばれる現象だ。意識せずに筋肉が動いてしまう無意識の動作で、参加者全員が「動いてほしい」と思っているうちに、本人も気づかないまま指が動いてしまう。霊が動かしているわけじゃなく、人間の脳と手が無意識にやってることだ。でも「信じている人」には、その感覚がとても本物に感じられる。

ロランド少年の場合、このウィジャボードを叔母の死後にひとりで使い続けていた。ひとりでやると本来「観念運動効果」は起きにくいが、強い信念があれば別の話だ。少年が叔母の死に向き合えないまま、ひとりでそれを続けていたという状況は、精神的に見てかなり危うい。

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1949年の事件

1949年、14歳の少年の身に奇妙なことが続いた。家具が勝手に動く。原因不明の音がする。少年の体に傷跡が浮かび上がる。そういった報告がいくつも上がり、カトリック教会は悪魔祓いの儀式に踏み切った。それも一度や二度じゃなく、約30回にわたって。最終的に教会は「儀式は成功した」と宣言している。ただ、この「成功した」という言葉が何を意味するのかは、今でも曖昧なままだ。

症状の具体的な記録

レイモンド・ビショップ神父の日記には、少年に起きた症状がかなり具体的に書かれている。まとめると、こういった内容だ。

体に文字や記号が浮かび上がる。特に「HELL」という文字が皮膚の上に赤く現れたという記述がある。声が変わる。普段とは全く別の低い声を出すことがあった。神父が祈りを唱えると強い反応を示す。聖水に特に敏感に反応した。体が硬直したり、逆に激しく動いたりする。儀式中に神父の腕を引っかいて傷つけた。

これだけ聞くと「映画そのままじゃないか」と思うかもしれない。でも映画の「首が360度回転する」「空中浮遊する」「緑の液体を吐く」といった描写は日記には出てこない。あれは脚色だ。実際に記録されていた症状は、もっと地味で、でも確かに「普通じゃない」と感じさせるものだった。

体に文字が浮かぶという現象は、現代医学で「皮膚描記症(ダーモグラフィズム)」という症状として知られている。皮膚を軽く押したり刺激を与えると、そこだけ赤く浮き上がる体質で、珍しいわけじゃない。強いストレス状態にある人ほど出やすいとも言われる。

儀式の記録|神父が残した日記

この事件、ほかの「怪談」と決定的に違うことがある。記録が残ってるんだ。

イエズス会の神父、レイモンド・ビショップは儀式の経過を詳細に日記として書き残した。その手書きの文書は現在でもセントルイス大学に保管されており、研究者が閲覧できる状態にある。つまり「誰かが語った話」ではなく、当時の当事者が書き残した一次資料がある。

その記録によると、儀式は最初メリーランド州で始まり、その後少年の家族がセントルイスへ移ったのに合わせてミズーリ州に場所を移した。主に担当したのはウィリアム・ボウダーン神父で、儀式は深夜から明け方にかけて行われることが多かった。

記録の中には、少年が突然ラテン語を叫んだとか、神父に向かって何かを投げつけたとか、体に文字が浮かび上がったとか、そういった描写が残っている。ただしこれらはあくまで当時の神父たちの視点で書かれたものだ。現代の研究者が読めば、また別の解釈ができる内容でもある。

ボウダーン神父とはどういう人物か

主担当だったウィリアム・ボウダーン神父について少し触れておく。彼はセントルイスのイエズス会に属する神父で、この事件に関わる前から信望が厚かった人物だったとされる。エクソシズムの経験は当時ほぼなかったが、上位の司教から担当を指示された。

記録を見ると、ボウダーン神父自身もこの体験に相当なダメージを受けたことがわかる。30回近い儀式を繰り返すなかで、少年の言動に翻弄され続けた。儀式が終わった後も、この体験について他人に多くを語ることはなかったという。

後年、ボウダーン神父の話を聞いた人は「あの人は事件について話したがらなかった。でも信じていることは確かだった」と証言している。「信じた」のか、あるいは「信じざるを得なかった」のか、それは本人にしかわからない。

セントルイスのアレクシアン病院での儀式

儀式の後半は、セントルイスのアレクシアン病院内の一室で行われた。少年の状態が悪化し、安全に管理できる場所が必要になったためだとされている。病院側のスタッフの中にも、この一連の出来事を目撃した人がいた。

最終的な「解放」が起きたとされる夜、少年が大声で「彼は去った!」と叫んだという記述が日記に残っている。その後、少年の症状は急激に落ち着いた。ボウダーン神父はこれをもって儀式の成功と判断した。

ただ「急に落ち着いた」ことへの解釈は人それぞれだ。症状が自然にピークを過ぎた可能性もある。極度の疲弊から「もう終わりにしたい」という無意識の決断が少年の中に生まれた可能性もある。神父が「終わった」と宣言したことで、少年が「終わっていい」と感じた可能性もある。

儀式は本当に「成功」したのか

約30回の儀式を経て、教会は「解放された」と宣言した。少年はその後、普通の生活に戻ったとされている。成人してから職を得て、家族も持ち、ごく普通の人生を歩んだらしい。本人は後年も一切コメントを出しておらず、正体は今も非公開のままだ。

「成功した」という宣言を聞くと、なんとなく納得してしまいそうになる。でも考えてみれば、儀式が終わった後に症状が落ち着いたとして、それが儀式のおかげかどうかは誰にも証明できない。症状が自然に治まっただけかもしれないし、環境が変わって精神的に安定したのかもしれない。因果関係は、実のところ不明のままだ。

少年のその後

「ロランド・ドウ」という仮名で記録されたこの少年、本名は長らく秘密にされてきた。2000年代に入ってから調査報道によって「ロナルド・エドウィン・ハンク・ホウ」という名前がほぼ特定されたが、本人は一切の公式コメントを出さなかった。

彼はその後、アメリカ国内で通常の仕事に就き、家族を持ち、目立つことなく生きた。映画「エクソシスト」が大ヒットしてからも沈黙を守り続けた。自分があの映画の元ネタだと公言することは最後までなかったようだ。

その姿勢はある意味で誠実に思える。あの体験を「売り物」にしなかった。少年時代の自分を世間に晒さなかった。本人にとって、それが14歳の出来事にどう折り合いをつけた結果なのかはわからない。でも、少なくとも「普通の人生を選んだ」という事実は残っている。

この事件が小説になるまで

作家のウィリアム・ピーター・ブラッティがこの事件を知ったのは、ジョージタウン大学の学生だったころだという。当時の新聞記事として事件が報じられており、それが彼の頭の中に残り続けた。

その後20年以上かけて彼はリサーチを重ね、1971年に小説「エクソシスト」を出版する。小説では主人公が少年から少女に変更され、症状もより視覚的で劇的な描写に変わった。舞台もワシントンD.C.のジョージタウンに移っている。

映画は1973年の公開直後から大ヒットし、社会現象になった。試写会で観客が気分を悪くして退場するとか、映画館の外で嘔吐する人が出たとか、そういう話が次々と報じられた。今の感覚からするとやや大げさに聞こえるかもしれないが、当時の人々にとってはそれだけ衝撃的だったということだろう。

ただその結果として、元の事件の実態は映画のイメージに完全に上書きされてしまった。「エクソシスト」といえばあの少女の顔が浮かぶし、「首が回転する」「緑の液体を吐く」という映画の演出が、現実の事件の記憶として人々の中に定着してしまっている。

映画撮影中に起きた「呪い」の話

映画「エクソシスト」には、撮影中の不吉な出来事を集めた「呪い説」もある。撮影スタジオが火事になった。主要キャストや関係者が相次いで亡くなった。撮影が何度も中断された。そういった話だ。

これは本当に起きた出来事をベースにしている。撮影セットが火災で焼けたのは事実で、悪魔が降臨した「リーガンの部屋」だけが奇跡的に無傷だったという話は有名だ。ただ「リーガンの部屋が無事だった」という部分は、後から脚色が加わっている可能性が高い。実際には火事の被害を免れた区画があっただけで、「悪魔の部屋だから」という話は後付けだろう。

それでもこういう話がどんどん積み上がっていくのが、「エクソシスト」という作品の特殊なところだ。実話を元にした映画、撮影中の不運、公開後の社会的反響。次々と「物語の素材」が加わっていって、映画そのものが都市伝説化していった。

科学的再評価

心理学的説明

現代の精神医学の視点から見ると、少年に起きていた症状には別の説明がつく。解離性障害、トゥレット症候群、あるいは強いストレス反応。どれもあの年齢の子供に起こりうることだ。家具が動いたとか、物が飛んだとか、そういう物理現象については、当時の目撃者の記憶が時間とともに盛られていった可能性が高い。人間の記憶は、思っているより簡単に書き変わる。

見逃せないのが「叔母の死」という出来事だ。大切な人を突然失い、しかもその人から教わったウィジャボードをひとりで続けていた。14歳の少年が抱えるには重すぎる喪失感だったはずで、それが身体症状として現れるのは、精神医学的には珍しいことじゃない。「転換性障害」といって、精神的なストレスが体の症状として出る現象は、今でも記録されている。

当時の家族や周囲の人々が「悪魔に憑かれた」という解釈を強く信じていたことも、症状の悪化に影響した可能性がある。暗示や信念が身体に及ぼす影響は、今の医学でも研究が続いている分野だ。

「集団ヒステリー」という観点

ここで少し視野を広げてみると、1949年のアメリカの時代背景も見えてくる。第二次世界大戦が終わって4年。冷戦が始まり、社会全体が不安定だった。宗教的な信仰が強い地域では、「悪」の存在に対する感覚が今よりずっとリアルだった。

家族が「これは悪魔だ」と信じ、近隣の人々もそう信じ、神父もそう信じた。その状況の中で少年に何が起きていたかを考えると、「信念が現実を作る」という側面は無視できない。現代の研究では、周囲の人間が「これは呪いだ」「これは病気だ」という強い信念を持つことが、当事者の症状に影響することが確認されている。

「集団ヒステリー」という言葉は少し乱暴な言い方かもしれないが、「共有された信念が体験を形成する」という現象は、歴史上繰り返し記録されている。

映画による神話化

ウィリアム・ピーター・ブラッティが小説を書き、それが映画になった時点で、元の事件はかなり別のものになっていた。主人公が少女に変わり、症状はより劇的に描かれ、宗教的な演出も強まった。映画があまりにもヒットしたせいで、今では多くの人が「映画の内容=実際に起きたこと」だと思い込んでいる。本当の事件の記録は、映画のイメージの陰に埋もれてしまった。

こういう「神話化」は、ホラー系の都市伝説には割とよく起きる。実際の出来事が核にあって、そこに物語が肉付けされていくうちに、どこまでが事実でどこからが創作なのかわからなくなる。エクソシストの場合、映画があまりにも有名すぎるせいで、「元ネタ」の方が霞んでしまった。

世界各地の「悪魔祓い」事件との比較

1949年のロランド・ドウ事件は、歴史上に記録された悪魔祓い事件の中でも特に有名なものだが、世界には同種の事件が他にも存在する。いくつか見ておくと、この現象の「構造」が見えてくる。

アンネリーゼ・ミヒェルの事件(1976年、ドイツ)

ドイツで1976年に起きたこの事件は、映画「エミリー・ローズ」の元ネタになった。23歳の女性アンネリーゼが約1年にわたって悪魔祓いの儀式を受け続け、最終的に衰弱死した事件だ。

彼女はてんかんの診断を受けており、医師からは投薬治療が必要とされていた。しかし本人と家族は医学的な治療を拒否し、宗教的な儀式にすべてをかけた。担当した神父2人と両親は、アンネリーゼの死後に「過失致死」で有罪判決を受けている。

ロランド・ドウの事件と決定的に違うのは「結末」だ。少年は生き残り普通の生活を取り戻した。アンネリーゼは死んだ。医学的な介入を拒否し続けた結果、何が起きたかはっきりわかる事件だ。

日本の「憑き物落とし」文化との比較

日本にも「憑き物」という概念は古くからある。キツネ憑き、犬神憑き。地域によって形は違うが「人間ではない何かが人に取り憑いた」という解釈と、それを「落とす」儀式の文化は広く存在してきた。

明治以降、こういった民間信仰は「迷信」として否定される方向に動いた。でも民俗学の研究を見ると、「憑き物落とし」の文化は昭和に入っても地方では残っていたし、記録もある。形が違うだけで、「説明できない症状を宗教的に解決しようとする行動」という構造は、日本もアメリカも同じだ。

文化が違っても、「わからない体験」に直面した人間が取る行動は似てくる。それが面白いと思う。

カトリック教会と悪魔祓いの現在

少し話を広げると、カトリック教会は今でも「悪魔祓いの儀式(エクソシズム)」を公式に認めている。バチカンが定めた儀式の手順もある。ただし現代では、儀式を行う前に精神科医による診察を受けることが推奨されており、医学的な問題を先に排除するという手順が踏まれるようになっている。

これは面白い変化だと思う。「霊的な問題かもしれないが、まず医学で確認する」というスタンスは、科学と宗教が完全に対立するんじゃなくて、ある程度共存しようとしている形に見える。

実際、バチカンはエクソシストの養成講座を定期的に開いており、世界各地に担当の神父が配置されているらしい。需要が今も一定数あるということだ。どんな時代でも、説明のつかない体験をした人は一定数いて、その人たちが宗教的な救いを求めることは続いている。

現代のエクソシスト養成講座

バチカン公認のエクソシスト養成講座が実際に存在するというのは、あまり知られていない話だ。ローマの教皇庁立大学が主催する形で定期的に開かれており、世界中の神父が受講しに来る。

その内容は「精神医学の基礎を学ぶ」ことから始まるという。つまり「まず医学的な原因を疑う」ための知識を身につけることが最初のステップだ。そのうえで、医学では説明がつかないケースにだけ宗教的な対応をとるという考え方が、現代カトリック教会の公式スタンスになっている。

受講者数は年々増えているという報告もある。21世紀になっても、こういう講座が盛況だという事実は、「説明できない体験をする人」が減っていないことを示している。

自分で調べるなら

この事件が気になって、もう少し深く掘りたいという人向けに書いておく。

レイモンド・ビショップ神父の日記は、いくつかの研究者によって分析・公開されており、英語のドキュメントとして参照できるものがある。ジャーナリストのトーマス・B・アレンが書いた「Possessed」(邦訳なし)という本は、この事件を丁寧に追ったノンフィクションで、事件の実態を知りたい人には一番おすすめできる資料だ。

映画の「エクソシスト」を改めて観るのもいい。ただその時は「これは創作だ」という前提を持った上で観ると、元の事件と映画の違いがはっきりしてくる。映画は映画として面白いし、元ネタとの差分もまた興味深い。

都市伝説や怪異の話を追うときに大事なのは、「信じるか信じないか」の二択じゃないと思ってる。「何が起きていたのか」「なぜそう記録されたのか」「どこで話が変わったのか」を追う方が、ずっと面白い。

映画「エクソシスト」シリーズについて

せっかくなので映画の話も少しだけ。1973年の第1作は今観ても十分怖い。静かな日常描写から徐々にズレていく演出が上手くて、「急に怖くする」系のホラーとは別種の圧迫感がある。

続編はいくつか作られたが、評価はまちまちだ。1977年の「エクソシスト2」は当時の批評家にかなり叩かれた。2023年には「エクソシスト ビリーバー」が公開されたが、こちらも評価は割れた。オリジナルを超えることの難しさを証明し続けているシリーズとも言える。

個人的に面白いと思うのは、1990年の「エクソシスト3」だ。原作者のブラッティ自身が監督した作品で、第1作とは全然違うアプローチをとっている。直接的な「悪魔祓い」より、連続殺人と宗教的な問いが絡み合う構造になっていて、独特の雰囲気がある。あまり話題に上らないが、観る価値はある。

この話から見えてくること

1949年の事件が今も語られ続けているのは、映画のせいだけじゃないと思う。

「説明できないことが起きた」「医学や科学では片づけられなかった」という体験は、どの時代にも、どの文化にも存在する。人間はそういう体験を「悪魔」「神」「祟り」「呪い」など、その時代の言葉に変換して理解しようとしてきた。1949年のアメリカでは、それが「悪魔憑き」という解釈になった。

現代に生きる俺たちが笑える話かというと、そうでもない。今でも原因不明の症状を抱えて苦しんでいる人はいる。医学で説明がつかない体験をした人もいる。そういう人たちがどこに救いを求めるかは、今も昔も変わらない。

エクソシストの話は、ホラーとして消費できるし、都市伝説として楽しめる。でも少し立ち止まると、その奥に「人間がわからないものとどう向き合うか」という、もっと根っこの話が見えてくる気がする。

「実話系ホラー」が持つ特有の怖さ

完全な作り話のホラーと、実話を元にしたホラーは、怖さの種類が違う。完全な創作は「これは嘘だ」とわかっているから、安全な怖さとして楽しめる。でも実話系は「これは本当にあった」という前提がある分、怖さが現実に侵食してくる感覚がある。

エクソシストが「実話を元にした」と知ってから観ると、同じシーンでも怖さが変わる。映画の演出の怖さじゃなくて、「あの時代に本当に起きていたこと」という怖さが混ざり込んでくる。それは創作単体では出せないものだ。

だから実話系の都市伝説は、「何がどこまで本当か」を知ってから向き合った方がいい。事実の部分と創作の部分を分けると、それぞれが別の怖さを持って見えてくる。その二層構造が、「エクソシスト」という話の面白さだと俺は思っている。

現実ってのは、映画よりずっと静かに、でも確実に怖いもんなんだよな。シンヤでした。じゃ、また夜更かしの時間に会おう。

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