夜も更けてきたな、シンヤだ。今日持ってきたのはタイで起きた、ちょっと不思議な事件。同じ誕生日に生まれた二人の子どもを巡る話なんだけど、偶然にしちゃ出来すぎてるっていうか。お前も気になるだろ? 俺はこの話を知ったとき、しばらくぼーっと考え込んじまったよ。

世界の奇妙な偶然の一致|確率が生む不思議な符合

歴史を振り返ると、「これ、偶然じゃないよな」と思わずにはいられない一致がいくつもある。超自然的な力なのか、確率のいたずらなのか。答えは出ないまま、語り継がれてきた話がある。

こういう話は世界中にあって、文化も時代も関係なく人の心をつかむ。なぜかといえば、俺たちは自分の人生にも「偶然じゃ片付けられない出来事」を多かれ少なかれ経験しているからだと思う。今日はそんな不思議な一致を、いつもより多めに集めてきた。長くなるけど、付き合ってくれ。

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タイで起きた「運命の双子」事件

2019年ごろ、タイのある地方都市で起きた話だ。同じ病院で、同じ日に生まれた二人の男の子がいた。ここまではよくある話だよな。問題はここから先だ。

その二人は別々の家族に引き取られて、当然まったく違う環境で育った。一人は農村部で、もう一人は都市部で。親も違えば、名前も違う。接点なんてゼロだ。ところが、15年後に地元の中学校で鉢合わせたとき、担任の先生が首を傾げる事態になった。二人の顔が、双子と言っても通るほど似ていたらしいんだ。

調べてみると、一致点がどんどん出てくる。好きな食べもの、苦手な科目、字の癖、笑い方のタイミング。DNAの話じゃない。まったく血のつながりのない二人が、なぜかシンクロしてた。地元では「前世のつながりだ」とか「運命の双子だ」なんて言われたみたいだ。

実際のところ、この話を裏取りしようとすると情報が断片的でね。タイの地方紙に小さく載ったくらいで、国際メディアが取り上げたわけじゃない。でも俺がこれを面白いと思うのは、「信じるか信じないか」より、「なんでそういう一致が生まれたのか」って部分なんだよ。

タイの「運命の双子」に似た話は他にもある

実はこの手の話、タイだけじゃない。アメリカのオハイオ州で1979年に報告された「ジムの双子」の話を知ってるか。こっちは本当に一卵性双生児で、生後すぐに別々の家庭に養子に出された二人の男性だ。名前はどちらも養親に「ジム」と名付けられた。

39歳で再会したとき、二人の人生があまりに似ていて研究者が驚愕した。最初の妻の名前がどちらもリンダ、二番目の妻がどちらもベティ。息子の名前は片方がジェームズ・アラン、もう片方がジェームズ・アレン。飼い犬の名前はどちらも「トイ」。同じブランドのタバコを吸って、同じ種類のビールを飲んでた。

こっちは遺伝子が同じだから、好みが似るのは百歩譲って説明がつく。でも妻や子どもの名前まで一致するのは、遺伝じゃ説明できないよな。ミネソタ大学の双子研究で正式に記録されている話だから、タイの件より信頼度は高い。

タイの二人は血縁関係がなかったとされているから、ジムの双子とはまた違う不気味さがある。遺伝という「説明の杖」すら使えない。だからこそ、地元の人たちが「前世」を持ち出したくなる気持ちは、わからなくもないんだ。

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有名な偶然の一致

リンカーンとケネディの類似点

リンカーン暗殺(1865年)とケネディ暗殺(1963年)には、驚くほど似た点が多いと言われてきた。でも統計学者が冷静に見ると、話は少し変わってくる。似ている部分だけをピックアップして、違う部分はスルーしているというわけだ。考えてみれば、どんな二人でも十分な数の項目を並べれば、どこかしら「一致」を見つけることはできる。

それでも、こうやって並べると確かにゾワッとくる。リンカーンは1846年に議会へ選出されて、ケネディは1946年——ちょうど100年後だ。二人とも金曜日に撃たれて、どちらも頭部への銃撃で、妻がすぐ隣にいた。しかも後継者の名前がどっちも「ジョンソン」ときてる。

ここまで並べると「さすがに出来すぎでは」という気持ちになるのはわかる。ただ、実際には「リンカーンは議会への初選出ではなく州議会への選出で1834年」という指摘もあって、都合よく数字を選んでいる部分もある。だから「すべて事実」とは言い切れない。

それでも、これだけの一致が語り継がれてきた理由はあるんだよな。人間って、パターンを見つけるのが得意というか、好きな生き物なんだ。バラバラな点をつないで意味を見出そうとする。それ自体は悪いことじゃない。ただ、その「パターン探し」が行き過ぎると、ないものをあるように見せてしまうこともある。

「タイタニック」と「タイタン」の小説

これはかなり有名な話だけど、知らない人もいると思うから紹介する。1898年に出版されたモーガン・ロバートソンという作家の小説「無益」(後に「タイタン号の遭難」と改題)には、北大西洋を航行中の豪華客船が氷山に衝突して沈む話が描かれてる。

その船の名前は「タイタン」。実際のタイタニック号が沈没したのは1912年——つまり、小説の14年後だ。

怖いのが細部の一致でさ。小説のタイタンも現実のタイタニックも「不沈」と宣伝されていて、事故が起きたのはどちらも4月。救命ボートが足りなかったのも同じで、乗客定員や船の排水量まで近い数字だったんだ。フィクションと現実がここまで重なると、さすがに鳥肌が立つ。

これを「予言だ」と言い切るのは難しい。でも「たまたまです」で片付けるのも、なんか腑に落ちない気がするのはなぜだろう。

ロバートソンはなぜ「当てた」のか

タイタンの話をもう少し掘ってみよう。ロバートソンは当時の造船技術や海運業界にかなり詳しかった。1890年代後半、「巨大な豪華客船を作る」という構想は業界で広く語られていて、彼はその延長線上で「こういう船ならこういう事故が起きるだろう」と想像した——という見方がある。

つまり、これは予言というよりも、専門知識に基づいた精度の高いシミュレーションだった可能性があるんだ。北大西洋の航路は氷山の危険が知られていたし、「不沈」と豪語するほどの船には救命ボートを必要数積まないだろう、という推論も当時の業界の風潮を知っていれば自然だ。

それでも、名前が「タイタン」と「タイタニック」。沈没が4月。乗客数まで似ている。知識で説明できる部分があるとしても、全部がそれで片付くかというと、やっぱりどこかに「引っかかり」が残る。この「説明しきれない余白」が、都市伝説として語り継がれる理由だと思う。

マーク・トウェインとハレー彗星

もうひとつ、有名な話を紹介しておく。アメリカの作家マーク・トウェインは1835年、ハレー彗星が地球に接近した年に生まれた。ハレー彗星はおよそ76年周期で地球に近づく天体だ。

トウェインは1909年にこんなことを言っている。「私はハレー彗星とともにやって来た。来年また彗星がやって来るから、私もそれと一緒に去るつもりだ。もし一緒に去らなかったら、人生最大の失望になるだろう」。

そして1910年4月21日、ハレー彗星が地球に最も近づいた翌日、トウェインは本当に亡くなった。75年の人生が、ハレー彗星の二度の接近にほぼぴったり重なったんだ。

これは本人が「予告」していた分、余計に不思議に感じる。もちろん、トウェインは1909年時点で74歳と当時としてはかなりの高齢だったし、心臓の病気を抱えていた。「彗星の年に死ぬ」と宣言した人が翌年に亡くなるのは、医学的にはそこまで驚きじゃないかもしれない。でも、タイミングが一日違いっていうのは、やっぱり何か持ってるよなと思う。

「大数の法則」と偶然

世界には70億人以上いて、みんなが毎日無数の選択をしている。そう考えると、「百万分の一の確率」の出来事は、世界のどこかで誰かに毎日起きているわけだ。統計的にありえないように見える一致も、視野を広げれば実はごく普通のことだったりする。

不思議な一致に意味を見出したくなるのは、人間として自然なことだと思う。でも確率の話を知ると、「偶然の一致」の見え方がちょっと変わってくる。神秘というより、数字が積み重なった結果——そう捉えることもできる。

「誕生日のパラドックス」で考える偶然

確率の話をもう少しだけさせてくれ。「誕生日のパラドックス」って聞いたことあるか。23人集まれば、その中に同じ誕生日の人がいる確率が50%を超える——という有名な話だ。365日もあるのに、たった23人で50%。直感的にはおかしい気がするよな。

でもこれ、ちゃんと計算すると正しいんだ。ポイントは「特定の誰かと自分が同じ誕生日」じゃなくて、「誰かと誰かが同じ誕生日」という組み合わせの数。23人いると253通りのペアができるから、どこかしらで一致する確率はかなり高くなる。

これと同じことが、日常の「偶然の一致」でも起きてるんだと思う。俺たちは自分が経験した一致だけに注目するけど、実は「一致しなかった瞬間」のほうが圧倒的に多い。夢に見た人に翌日会ったら「予知夢だ」と騒ぐけど、夢に見て会わなかった何百回は忘れてる。

この「忘れてる部分」を含めて全体を見ると、偶然の一致はそこまで奇跡的じゃなくなる。でも——これは後で話すけど——「奇跡的じゃない」ことと「意味がない」ことは違う、と俺は思ってる。

日本で語られる「不思議な一致」

関東大震災と阪神淡路大震災

都市伝説界隈でたまに話題になるのが、日本の大地震どうしの「日付の符合」だ。関東大震災は1923年9月1日、阪神淡路大震災は1995年1月17日。この二つの数字を足したり掛けたりすると「ある数字」が出る——なんていう話がネットに出回ることがある。

正直に言うと、この手の「数字を操作したら一致した」系の話はあまり信用しないほうがいい。どんな数字でも、計算の方法を変えれば意図した答えに近づけることができるから。それでも「なんか怖い」と感じるのは、日本人の地震に対する心理と絡み合ってるんじゃないかと俺は思ってる。

江戸時代の予言書「ミロクの世」

江戸時代後期に書かれたとされる文書で、「黒船が来たあと世界は大きく変わる」というような内容が記されていたと言われてる。実際に1853年にペリーが来航してから日本は大きく変わったわけで、「予言が当たった」という話として語られることがある。

ただこれも、「後から当てはまるように解釈した」という可能性が高い。人間は結果を知ってから過去の出来事を見ると、「つながってた」と感じやすいんだ。これを心理学では「後知恵バイアス」と呼ぶ。

東京の地名に隠された「符合」

日本の都市伝説で地味に根強いのが、東京の地名にまつわる話だ。たとえば「鬼門」と「裏鬼門」の方角に沿って寺社が配置されているという話。江戸城(現在の皇居)から見て北東——つまり鬼門の方角には上野の寛永寺が、南西の裏鬼門には芝の増上寺が置かれた。これは徳川幕府が意図的に配置したとされていて、都市伝説というより歴史的事実に近い。

面白いのはここからで、明治以降に作られた鉄道路線や幹線道路も、結果的にこの「鬼門ライン」を避けるように通っているという指摘がある。意図的なのか偶然なのかはわからないけど、東京の都市構造に江戸時代の呪術的な設計思想が今も息づいている——と考えると、ちょっとゾクッとしないか。

もちろん、道路や鉄道のルートは地形や土地の所有権、コストの都合で決まることがほとんどだ。でも「たまたま鬼門を避けてる」と見ることもできてしまう。この「見方次第でどうとでも取れる」感じが、都市伝説の魅力なんだよな。

三島由紀夫の「予感」

日本の作家・三島由紀夫は1970年11月25日に自決した。これは広く知られた事実だけど、彼が晩年に書いた作品や手紙の中に、自分の最期を暗示するような記述がいくつも見つかっている。

代表作「豊饒の海」四部作の最終巻『天人五衰』の最後の原稿を出版社に渡したのが、まさにあの日の朝だった。四部作を書き終えることと、自分の人生を終えることを重ね合わせていたのではないか——という解釈は根強い。

これは「偶然の一致」というよりも「本人が意図的に合わせた」ケースだろう。でも、作品の中にちりばめられた死のイメージが、結果的に現実と重なっていく過程は、読んでいて背筋が寒くなる。フィクションが現実を追いかけたのか、現実がフィクションに追いついたのか。

偶然の一致をめぐる心理学の話

アポフェニア――パターンを見つけたがる脳

「アポフェニア」という言葉を知ってるか。無関係なものの中にパターンや意味を見出してしまう傾向のことだ。雲を見て「ウサギに見える」と思うのも、星座に物語を重ねるのも、ある意味これと同じ。

人間の脳は、危険を察知するために「パターン認識」が得意に進化してきた。茂みがゆれたら「もしかしてトラかも」と反応できる生き物のほうが生き延びやすかったわけだ。だから俺たちの脳は、意味のないノイズの中からも無意識に意味を探そうとする。

これが「偶然の一致」を実際より神秘的に見せる原因のひとつだ。一致してる部分は鮮明に記憶に残るけど、一致してない部分はすぐ忘れる。結果として「あんなに似てた」という印象が残る。

確証バイアス――見たいものしか見ない

もうひとつ関係するのが「確証バイアス」だ。自分が「不思議だ」と思い始めると、それを裏付ける情報ばかり集めてしまう傾向のことで、これがかなり厄介でね。

リンカーンとケネディの話でいえば、「一致してる点」は徹底的に探されるけど、「違う点」はあまり語られない。たとえばリンカーンはゲティスバーグで演説したが、ケネディはしてない。でもそんな「不一致」は話のネタにならないから省かれる。

俺がこういう話をするとき、なるべく「信じろ」とは言わないようにしてるのはそのためだ。「面白い」と「本当だ」は別の話だから。

シンクロニシティ――ユングが名づけた「意味ある偶然」

心理学の世界で「偶然の一致」を真正面から扱った人物がいる。カール・グスタフ・ユングだ。分析心理学の創始者として知られるユングは、「シンクロニシティ(共時性)」という概念を提唱した。

ユングが言うシンクロニシティとは、因果関係では説明できないけれど、意味のある形で結びついている二つの出来事のことだ。たとえば、ある患者が夢の中で黄金のスカラベ(コガネムシ)を見た。その話をユングに語っているまさにそのとき、窓の外からコガネムシに似た甲虫が飛び込んできた——という有名なエピソードがある。

ユングはこれを「ただの偶然」とは考えなかった。意識の深い層——集合的無意識と呼ばれる領域——が、外界の出来事と何らかの形でつながっているのではないか、と考えたんだ。

科学的に証明されているわけじゃない。正直、オカルトと紙一重だと言う研究者もいる。でも「偶然の一致に意味を感じてしまう」という人間の体験を、真面目に学問の対象にしようとした姿勢は、俺は嫌いじゃない。「気のせいだよ」で終わらせないところに、ユングの面白さがある。

デジャヴとの関係

偶然の一致と似た体験として「デジャヴ」がある。「この場面、前にも経験した気がする」というあれだ。デジャヴの原因については、脳の記憶処理における小さなエラー——新しい記憶が「古い記憶」のフォルダに誤って保存される現象だという説が有力だ。

面白いのは、デジャヴを頻繁に経験する人は、偶然の一致にも敏感な傾向があるという研究があることだ。これはアポフェニアとも関連していて、脳が「パターンを検出する感度」が高い人は、デジャヴも偶然の一致もよく「見つける」ということかもしれない。

感度が高いこと自体は良いとも悪いとも言えない。ただ、「自分はそういう傾向がある」と知っておくだけで、不思議な体験をしたときの受け止め方が少し変わると思う。驚きつつも、一歩引いて観察できるというか。

それでも「意味がある」と感じてしまうとき

心理学や統計の話をしてきたけど、「じゃあ全部ただの偶然なの?」と言われると、俺もそこまで断言できない。

たとえば、大切な人が亡くなった日に、その人の好きだった曲がたまたまラジオから流れてきた——そういう体験をした人に「ただの偶然だよ」と言うのは、なんか違う気がする。確率的には説明できても、その人にとっての「意味」は消えないから。

偶然の一致を「科学的に否定できるかどうか」と「自分にとって意味があるかどうか」は、別の話だと俺は思ってる。

「意味の付与」は人間だけの能力

動物は偶然の一致に驚いたりしない。犬は「昨日と同じ時間に同じ場所で同じ猫に会った」ことに特別な意味を見出さないだろう。偶然に「意味」を感じるのは、おそらく人間だけだ。

これを「進化のバグ」と見ることもできるし、「人間にしかない豊かさ」と見ることもできる。俺は後者に近い立場だ。意味のないところに意味を見つけてしまう——それが物語を生み、宗教を生み、都市伝説を生んできた。人間の文化って、ある意味この「バグ」の産物じゃないかとすら思う。

ただ、これが行き過ぎると陰謀論になる。「すべてはつながっている」「偶然なんてない」という方向に振り切れると、見えないものまで見えてくる。そのバランスを保つのが大事だと思っていて、だから俺は「面白がるけど鵜呑みにはしない」というスタンスでやってる。

シンヤの体験談――俺にも似た話がある

こういう話をしてると、自分の記憶も掘り起こされてくる。

昔、地元の友人と「10年後に同じ場所で会おう」って約束したことがあった。連絡先も交換せず、まあ冗談みたいな感じで言い合ったやつだ。当然、そんな約束のことはすっかり忘れてた。

それから11年後。仕事の出張で久々にその街に行ったとき、昼飯どこ食おうかと歩いてたら、その友人とばったり会った。向こうも仕事で来てたらしい。二人ともその約束のことを忘れてたのに、あとから「あれって約束してた場所に近かったよな」って気づいて、二人でしばらく笑えなかった。

これを「すごい一致だ」と言うべきか、「まあ縁があっただけだ」と片付けるべきか。今でもわからない。でも、あの再会の感覚はずっと覚えてる。

もうひとつ、本の話

これはもっと些細な話なんだけど。何年か前、古本屋でたまたま手に取った文庫本があった。ぱらっとめくったら、前の持ち主が付箋を貼ってたページがあって、そこに赤線が引いてあった。読んでみたら、まさにその日の朝に自分が考えてたことと同じテーマの一節だったんだ。

前の持ち主がいつそこに線を引いたのかは知らない。でも、何百冊もある棚の中からその一冊を手に取って、線が引いてあるまさにそのページを開いた——という一連の「偶然」が重なったとき、ちょっとだけ世界が自分に話しかけてきたような気がしたんだよ。

こういう小さな体験って、誰にでもあると思う。SNSで「偶然の一致」で検索すると、似たような話がいくらでも出てくる。「引っ越し先の隣人が小学校の同級生だった」「旅先で買った絵葉書に自分の祖父母の家が写ってた」。どれも確率的には起こりうる話だけど、当事者にとっては特別な体験として記憶に刻まれてる。

偶然の一致、どう付き合うか

「確率と大数の法則で説明できる、ただの数字の話」という見方がある。一方で、「説明できても、感じてしまうものは感じてしまう」という、もっと人間くさい受け止め方もある。

科学的に考えるなら前者でいい。でも深夜に一人でこういう話を読んでるときは、どこかで後者を楽しんでる自分がいると思う。理屈と直感のあいだをゆらゆら揺れてる、あの感覚。それが都市伝説を読む面白さだと俺は思ってる。

俺なりの「偶然の一致」の楽しみ方

最後に、俺なりの付き合い方をまとめておく。

まず、不思議な一致に出会ったら、素直に「おっ」と驚く。これが第一段階。次に、「なぜ自分はこれを不思議だと感じたのか」を考える。アポフェニアや確証バイアスのことを思い出しながら。そして最後に、それでも残る「なんか引っかかる感じ」をそのまま持ち帰る。無理に結論を出さない。

「白か黒か」で決めなきゃいけないわけじゃないんだ。グレーのまま抱えておく。それが、偶然の一致との一番いい距離感だと俺は思ってる。

「信じるな、でも忘れるな」——それが俺のスタンスだ。

今夜紹介した話の中で、お前が一番引っかかったのはどれだった? タイの双子か、タイタンの小説か、それともトウェインとハレー彗星か。どれであれ、その「引っかかり」を大事にしてほしい。理屈で全部説明できる世界より、ちょっとだけ説明しきれないものが残ってる世界のほうが、俺は面白いと思うから。

偶然と運命の境界線って、結局誰にも引けないんだよな。そういうモヤモヤを楽しめるのが深夜の醍醐味って話。シンヤでした、またな。

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