よう、シンヤだ。今夜のテーマは疫病と神さまの話。昔の人ってさ、病が流行ると「これは何かの祟りだ」って考えて、それを鎮めるための儀式をやってたわけ。その送り出しの風習が全国にいろんな形で残ってるんだけど、前に調べたことあってさ、これがまた面白いんだよ。

疫病神の民俗学|日本の疫病退散儀式の系譜

昔の日本人は、疫病が流行るたびに「疫病神の仕業だ」と考えた。神さまとして名前をつけて、儀式で外に送り出す。その発想がけっこう面白くて、地域によっていろんな形で今も残ってたりする。

この記事では、疫病神がどんな存在として語られてきたか、どんな儀式で退散させてきたか、そして日本各地に残る風習の話をしていく。知れば知るほど、昔の人の知恵というか、恐怖との向き合い方みたいなものが見えてきて、妙に引きつけられるんだよな。

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疫病神とは何か

疫病の擬人化

疫病神は、病気の原因を「人格のある何か」として描いたものだ。姿は地域によってバラバラだけど、痩せた老人とか、どこか異国風の容貌で描かれることが多い。「外からやってくる者」というイメージは、実際に疫病が旅人や交易路を通じて広まるという経験から来ているんだろうと思う。見えない恐怖に顔を与えることで、人はどうにか向き合おうとしてきた。

名前のない恐怖というのは、扱いようがない。でも、名前をつけて、姿を想像して、「こいつがやってきた」と思えれば、次のステップに進める。追い払う、祀る、なだめる——そういう行動が取れるようになる。疫病神という概念は、ある意味で人間が恐怖を管理するために作り出したツールだったのかもしれない。

疫病神の見た目と性格

絵巻や民間伝承に残る疫病神の描写は、地域ごとにかなり違う。だいたい共通しているのは「よそ者っぽい」という点だ。異国の服を着ていたり、なんとなく浮いた感じがある。村の共同体に属さない存在——それが疫病神の基本イメージだった。

一方で、疫病神は単純な「悪者」でもなかった。ちゃんともてなせば禍を起こさずに立ち去る、という話も多い。「蘇民将来」の伝説がまさにそれで、旅の神(スサノオとも牛頭天王ともいわれる)を泊めてあげた家だけが疫病から守られた、という話が各地に伝わっている。神さまは気まぐれで、扱い方次第では味方にもなる——そんな感覚が根底にあった。

御霊信仰との結合

平安時代になると、「非業の死を遂げた人の怨霊が疫病を起こす」という考え方が広まった。菅原道真や崇徳天皇の名前が出てくるのもこの文脈で、怨霊を鎮めるために御霊会があちこちで開かれた。今も続く京都の祇園祭も、869年の疫病退散祈願が起源だったりする。

怨霊信仰というのは、ある意味で責任の所在をはっきりさせる仕組みでもあった。「あの人を不当に死なせたせいで、祟りが来ている」——そう考えることで、なぜ自分たちが苦しんでいるのかという問いに答えが出る。納得できる理由があれば、人は動ける。御霊会や社殿を建てることで、怨霊をなだめ、共同体の秩序を回復しようとしたわけだ。

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日本各地の疫病退散儀式

追儺(ついな)と豆まき

節分の豆まきって、もともとは宮中でやってた追儺という儀式が元になってる。鬼や疫病神を追い払うための儀式で、「鬼は外」の掛け声もそこから来ている。共同体の「外」に厄を追い出すという発想、今でも感覚的にわかる気がする。

追儺は中国から伝わった儀式で、日本には8世紀頃に定着したといわれる。宮中では毎年大晦日の夜に行われ、方相氏(ほうそうし)という鬼を追い払う役の者が、黄金の四つ目の面をつけて登場する。これが「鬼を追い払う儀式」なのに鬼みたいな見た目をしてるのが面白い。時代が下るにつれて、この方相氏自身が「鬼」として追い払われる側になっていったという説もある。儀式って、変容していくんだな。

節分の豆まきが一般庶民に広まったのは江戸時代あたりからで、そこから「鬼は外、福は内」という掛け声が定着した。地域によっては「鬼は外」を言わない神社もある。鬼を祀っている神社では、鬼が神さまだから追い出せない——という理屈だ。

蘇民将来の伝説と茅の輪くぐり

神道や民間信仰を調べると、必ず出てくるのが「蘇民将来(そみんしょうらい)」の話だ。旅をしていた神(スサノオノミコトとも牛頭天王ともいわれる)が一夜の宿を求めたとき、貧しくても快く泊めてくれた蘇民将来の家だけが疫病から守られた——という伝承だ。

この話の教訓は単純で「神さまには親切にしろ」なんだけど、それ以上に「疫病神を怒らせないためにはどうするか」という実践的な思想が背景にある。疫病を「排除」するだけでなく、「うまく付き合う」という方向性があった。蘇民将来の子孫であることを示すお守りや木札が今でも神社で売られていて、「蘇民将来之子孫也」と書かれた護符は全国各地で見られる。

そして茅の輪くぐり。夏越の大祓(なごしのおおはらえ)というのが6月末に各地の神社で行われるんだけど、この儀式で使われる大きな輪が「茅の輪(ちのわ)」だ。これも蘇民将来の伝説に由来していて、茅の輪を腰につけていた者が疫病から守られた、という話が元になっている。今は神社の参道に巨大な輪が立てられていて、8の字を描くように3回くぐることで半年分の穢れを祓うとされる。

梅雨時、ちょっと蒸し暑い夕方に神社に行って茅の輪をくぐるのが毎年の習慣になってる人も多い。形だけの儀式に見えて、あれ、なんか気持ち切り替わるんだよな。

道祖神と境界の守護

村の入口に置かれていた道祖神も、疫病を食い止めるための結界みたいな意味があった。外から何かが入ってくる——その感覚が、境界を守るという形で具体化されたんだろうな。目に見えないものを「入れない」ために、物理的な印を立てる。それが道祖神だった。

道祖神は旅人の守護神でもあるけど、「ここから先は別の領域」という境界標でもあった。村の中と外を分ける、見えない線の目印だ。疫病は外からやってくるものだという認識があったから、その境界を守る神さまに疫病を防ぐ力を期待するのは自然な発想だった。

長野県や東北の農村地帯には、今でも道祖神が道端に残っていることが多い。石を積んだだけのシンプルなものから、男女の神が並んだ彫刻の入ったものまで様々だ。車で山道を走ってると不意に出てくるあの感じ、ちょっとドキッとするんだよな。

人形(ひとがた)に移す——形代の儀式

疫病退散の方法として、「移す」という発想もあった。紙や藁で人の形を作り、そこに自分の穢れや病を移して、川に流したり燃やしたりする。形代(かたしろ)と呼ばれる、これも全国に残る慣習だ。

大祓の儀式で神社から配られる紙の人形、あれに名前と年齢を書いて息を吹きかけて体を撫でる。穢れを形代に移して、川や海に流す。見えないはずの「悪いもの」が人形に乗り移って、自分の体から出ていく——そういうイメージを丁寧に演出するのが儀式の役割だ。

子供の頃、夏祭りで神社に行ったとき、祖母が紙の人形を丁寧に体に当てて息を吹きかけてた。「何やってるの」って聞いたら「悪いもんを全部ここに入れてるんよ」って言ってた。あのとき半分「なんで?」と思いながら、でも真剣な顔だったから一緒にやったのを覚えてる。今考えると、あれは大祓の形代だったんだな。

京都祇園祭——疫病退散の起源を持つ国家的祭礼

869年の疫病と御霊会

京都の祇園祭は7月の一ヶ月間にわたって行われる大規模な祭りで、山鉾巡行が有名だ。でもこれ、もともとは疫病退散のための儀式として始まった。869年——平安時代の初期、全国的な疫病が流行したとき、朝廷の命で神泉苑に66本の矛を立てて祀り、神輿を送り出したのが起源だとされている。66本というのは、当時の日本の国の数に合わせたものだ。

主祭神は牛頭天王(ごずてんのう)。これはインド由来の神さまで、スサノオノミコトと同一視されることも多い。疫病を司る神であり、同時に疫病を退散させる力を持つ神でもある——加害者と守護者が一体になってるのが、日本の神さまらしいところだ。

山鉾巡行の「動く美術館」という側面はよく語られるけど、あの巡行自体が神さまの通り道を清める意味を持っていた。疫病神を乗せた神輿が町を練り歩き、最終的に外へ送り出す——それが山鉾巡行の本来の機能だった。今でも神事の部分は厳密に守られていて、単なる観光イベントじゃない。

山鉾と疫病神の「お見送り」

祇園祭の山鉾巡行には、前祭(さきまつり)と後祭(あとまつり)がある。7月17日の前祭巡行が有名で、ここで神幸祭(しんこうさい)——神輿が八坂神社を出発して御旅所に渡御する——が行われる。そして24日の後祭の後、還幸祭(かんこうさい)で神輿が戻ってくる。

この「送り出して、また迎える」という流れ、疫病神との交渉みたいだと思わないか。外へ出てもらって、その間に穢れを持ち去ってもらって、また戻ってくる。怒らせず、でも遠ざける。日本の疫病退散の発想って、根本的に「共存」なんだよな。完全な駆除じゃなくて、なだめて送り出す。

山鉾それぞれの役割——長刀鉾と鶏鉾

山鉾の中でも特に有名なのが長刀鉾(なぎなたほこ)だ。巡行の先頭を行く唯一の「生き稚児」を乗せる鉾で、鉾の先端に大きな長刀がついている。この刀が、巡行の道を清め、邪気を祓う役割を持っている。疫病神の通り道を事前に浄化する、いわば斥候のような存在だ。

鶏鉾(にわとりほこ)は、古代中国の思想「世界の中心」を表す鉾とされ、疫病を遠ざける呪力を持つと伝わる。山鉾それぞれに意味があって、ただの飾りじゃない。一基一基が「動く御守り」として機能していた時代の名残が今もある。

梅雨があけかけた7月の京都で、あの巨大な鉾が街を動いていく光景を一度見たことがある。観光っぽく行ったつもりだったのに、鉾が目の前を通った瞬間、なんか背筋がピンとした。理屈じゃなくて、あの重さと古さが体に伝わってきた感じ。ああいう経験って、言葉では説明しにくいんだけどな。

東北の疫病神送り——「流す」という行為の意味

ナマハゲと来訪神信仰

秋田のナマハゲは有名だけど、あれも来訪神信仰の一つで、疫病退散と深く関わっている。毎年大晦日、「悪い子はいねがー」の掛け声で鬼のような面をつけた者が家々を訪ねるあの儀式、見た目はホラーだけど意味は「厄払い」だ。

来訪神という概念がある。外からやってくる神さまが、その家や共同体の穢れや厄を持ち去ってくれる——というものだ。疫病神も「外からやってくる者」だったが、来訪神はそれを逆手に取った発想で、外の者に厄を持って帰ってもらうという仕組みだ。ナマハゲを怖がりながら迎えて、供物を渡して、帰ってもらう。あの流れは疫病神との交渉に似てるな、と思う。

精霊流しと疫病送りの共鳴

長崎の精霊流しは盆行事として知られているけど、「亡くなった者の霊を船に乗せて送り出す」という発想は疫病神送りとどこか重なる部分がある。霊的なものを「流す」「送り出す」という行為は、日本全国の民間信仰に共通して見られる。

流し雛もそうだ。和紙でできた雛人形に厄を移して川に流す、あの行為。今でも各地で行われていて、京都の下鴨神社や鳥取の用瀬(もちがせ)の流し雛が有名だ。疫病を「送り出す」という感覚が、さまざまな形の「流し」の儀式につながっている。

青森のねぶた祭と疫病送り

東北三大祭りのひとつ、青森のねぶた祭。あの巨大な灯籠を川や海に流す「ねぶた流し」には、眠気や疫病を流し去るという意味があるとされる。「ねぶた(眠た)」が転じたとも言われるが、農繁期に眠気や病気を流して夏を乗り切るための儀式という解釈が有力だ。

今は安全上の理由から実際に流すことは少なくなっているが、巨大な武者絵のねぶたを担いで夜の街を練り歩く姿は、疫病神を外へ「連れ出す」行為そのものに見える。担ぎ手の掛け声「ラッセーラ、ラッセーラ」も、もとは疫病や災いを追い払う呪文的な意味があったとも言われている。

夏祭りって、どこでも「送り出す」構造をしてるんだな。花火だって、もともとは疫病や霊を遠ざけるための火の力を借りた行為だという説がある。夏に火を焚き、音を出し、大勢で集まって騒ぐ。それ自体が長い歴史の中で作られてきた疫病退散の記憶なのかもしれない。

疫病と宗教——仏教・神道それぞれのアプローチ

仏教の護摩と厄払い

仏教サイドからも疫病への対応はあった。護摩(ごま)を焚いての祈祷、薬師如来への祈願——疫病が流行るたびに寺院でも大規模な法会(ほうえ)が行われた。奈良の東大寺が建立された理由の一つも、天平時代の天然痘の大流行に対する鎮護国家の祈りだ。聖武天皇が大仏建立を決めたのは、疫病で多くの人が死んだことへの絶望と、なんとかしたいという願いが重なっていた。

薬師如来は病気治癒の仏さまで、東方の「瑠璃光世界」を主宰するとされる。全国の薬師如来を祀る寺が疫病流行の際に人々で溢れたのは、当然のことだった。効くかどうかより、何かにすがれること、祈ることができること——それが人間には必要だった。

疫病神を祀る神社の存在

日本には疫病神を「追い払う」のではなく「祀る」という神社が存在する。代表格は京都の八坂神社だけど、各地に疫神社(えきじんじゃ)や牛頭天王社が残っている。

疫病神を祀るというのは、怖い存在を「こちら側に引き込む」ことで、その力を制御しようとする発想だ。敵を味方にする、という戦略に近い。疫病を起こす力を持つ神だからこそ、その神に祀られれば守ってもらえる——そういう論理だ。

実際、八坂神社には今でも疫神社(えきじんじゃ)という境内社がある。祇園祭の最終日、7月31日に行われる「疫神社夏越祭」では茅の輪くぐりが行われ、半年分の厄を祓う。疫病神を祀りながら、その力を制御する——これが日本的な発想だった。

密教と疫病——不動明王の炎

平安時代以降、密教が疫病退散の場面で大きな力を持つようになった。不動明王の護摩供養は「煩悩を焼き尽くす炎」として知られているが、疫病や災厄を焼き払うという意味でも使われてきた。空海が高野山を開いたのも、鎮護国家——つまり疫病や災害から国を守るという目的があった。

密教の呪術的な側面は今でも修験道に残っていて、山伏が山に籠もって護摩を焚く儀式は現代でも行われている。炎には浄化の力がある、という感覚は世界中に共通していて、日本でもそれが疫病退散の文脈で使われてきた。炎で焼くのは「追い出す」とは少し違う——完全に消し去る、という発想だ。それが密教的な強さだったのかもしれない。

近世の疫病と民間の知恵

江戸時代の疫病流行と庶民の対応

江戸時代は疫病との戦いの歴史でもある。天然痘、麻疹(はしか)、コレラ——そのたびに流行が来て、多くの命が失われた。幕末に流行したコレラは「虎列刺(コレラ)」と書かれ、「虎狼痢(ころり)」とも呼ばれた。江戸だけで数万人が亡くなったこともあったという。

そのたびに民間では護符が売れ、神社仏閣では祈祷が行われ、疫病神送りの儀式が各地で自然発生的に行われた。幕府も何らかの対策をとったが、有効な医療がない時代に人々が頼れるのは儀式と信仰しかなかった。

面白いのは、疫病が流行するたびに「お蔭参り(おかげまいり)」という伊勢神宮への集団参詣がピークを迎えることだ。社会不安が高まると、人は聖地に向かう。1830年の大流行の時には約480万人が伊勢に参詣したという記録が残っている。当時の日本の人口が3,000万人前後だったことを考えると、ものすごい規模だ。

疱瘡神と赤色の不思議な関係

天然痘(疱瘡・ほうそう)は江戸時代まで最も恐れられた疫病の一つだった。子供の死亡原因の大きな部分を占めていたこともある。この疱瘡を鎮める神さまが疱瘡神(ほうそうがみ)で、各地で祀られた。

特徴的なのは、疱瘡神には「赤色」が有効とされたことだ。患者に赤いものを身につけさせ、部屋を赤で飾り、赤色の食べ物を供えた。この赤色信仰の起源は諸説あって、赤が邪気を払う色とされていたことや、赤が熱・火を連想させるため疫病の熱を「受け取ってくれる」という感覚があった、とも言われる。

赤べこ(福島の玩具)も疱瘡除けのお守りとして広まったという説がある。真っ赤な牛の置物が子供の疫病除けになる——形は違っても「赤」を使って疫病から子供を守ろうとした親心が背景にある。

麻疹絵——病を「見える化」して送り出す

江戸後期に流行した麻疹(はしか)のとき、「麻疹絵(はしかえ)」と呼ばれる版画が大量に出回った。麻疹を擬人化して描いたもので、「麻疹神が退散していく」場面を描いたものが多い。疫病に名前と姿を与えて、絵の中で退散させる——紙の上に疫病神送りを描いたわけだ。

この麻疹絵には「食べると良いもの・悪いもの」のリストや、療養の心得なども描かれていて、当時の医療情報の伝達手段としても機能していた。絵師たちが競って描き、庶民はそれを買い求めた。恐怖を笑いやユーモアに変換する知恵と、実用的な情報を盛り込む工夫。江戸の人たちって、したたかだなと思う。

疫病を主人公にして物語を作り、最後に「退散させる」場面で締める。ある意味これ、現代のコンテンツの構造と同じだよな。怖いものを見せて、解決して、安心させる。人間がやってることって、時代が変わってもそんなに変わらないのかもしれない。

疫病神送りと現代——今に残る儀式の意味

コロナ禍で再注目された伝統行事

2020年以降のコロナ禍で、日本各地の疫病退散にまつわる伝統が再注目された。神社の茅の輪くぐりの参拝者が増えたり、「疫病退散」の御守りが話題になったり。アマビエという江戸時代の妖怪——疫病を予言し、自分の絵を広めれば疫病が収まるという言い伝えを持つ——がSNSで大流行したのも印象的だった。

アマビエのイラストがTwitter(現X)で何万件も投稿された現象って、本質的には江戸時代に護符を買い求めた人々と変わらないんじゃないかと思う。見えない恐怖に対して、何か象徴的なものに頼りたい、共有したい——その感覚は変わらない。媒体がSNSになっただけで、やってることは「疫病神送り」の現代版だ。

アマビエ以外にも——疫病を鎮める妖怪たち

アマビエが有名になったけど、実は疫病や厄災を予言・鎮める妖怪は他にもいる。「神社姫(じんじゃひめ)」は肥前国の海に現れた龍のような生き物で、「これから7年間疫病が流行る。私の姿を見れば病にかからない」と告げたとされる。アマビエとほとんど同じ構造だ。

「件(くだん)」は牛の体に人の顔を持つ妖怪で、予言をして死ぬとされる。その予言を書き留めた紙が御守りになるという。疫病や戦争の前に現れる、という話が繰り返し出てくる。

これらの妖怪に共通しているのは「予言者」であることだ。未来を知ることで、恐怖を先取りして心の準備ができる。あるいは「自分の姿を広めれば守られる」という約束——これは疫病神と交渉して、条件をのんで守ってもらう構造に似てる。妖怪も神さまも、突き詰めると恐怖との交渉相手として機能してきたんだな。

なぜ儀式が必要だったのか

医学的に何の効果もない儀式が、なぜ長く続いてきたのか。これは単純に「無知だったから」では説明できないと思う。

一つには、儀式が共同体をまとめる機能があった。疫病が流行している最中、村人全員が同じ儀式に参加し、同じ祈りを捧げる。恐怖の中で孤立するより、一緒に「対処している」という感覚が持てる。精神的な安定は免疫にも関わる——という話は現代医学でもある程度認められている。

もう一つは、儀式が行動規範になっていたことだ。「疫病が来たら村に入れるな」「感染した者を隔離せよ」というのは、実は疫病神を「境界の外に追い出す」という儀式の論理と重なる。医学的理由は後からついてきたかもしれないが、儀式として実行されていた行動が実際に感染を防ぐ効果を持っていた、ということも十分ありえる。

科学的な知識がなかった時代に、疫病に名前をつけて、送り出す儀式をする。理屈としては原始的でも、恐怖に形を与えて「どうにかする」という行為には、妙な説得力がある。疫病神を「送り出す」という感覚、ちょっとわかる気がしないか。

儀式が残り続ける理由

令和の今でも、各地の祇園祭や夏越の祓、節分の豆まきは続いている。意味を知ってやってる人もいれば、なんとなく毎年やってる人もいる。でもそれでいいんじゃないかと思う。

祭りや儀式って、意味を完全に理解してやる必要はない。参加すること自体に意味がある。共同体の記憶を身体で繰り返すこと——それが伝統の本質だ。疫病退散の儀式を繰り返すことで、「かつてこの土地で人々が怖かったもの」「それでも生き延びてきたこと」が、無意識のうちに受け継がれていく。

日本全国に残る疫病神送りの儀式。その一つひとつには、名もない人々の恐怖と、それでもどうにかしようとした意志が詰まっている。知ってから参加すると、また違った感覚になるよ。

疫病神送りを「体験」できる場所

今でも行ける儀式・祭りカレンダー

せっかくだから、実際に足を運べる場所もまとめておく。疫病退散の文脈を知ってから見ると、全然違って見えるはずだ。

まず6月末の「夏越の大祓」。これはほぼ全国の神社でやってて、茅の輪くぐりができる。地元の神社を調べれば、おそらく一つは見つかる。難しい手続きは何もない。輪をくぐるだけでいい。

7月の京都祇園祭は疫病退散の儀式として始まった祭りの最高峰だ。山鉾巡行(7月17日・24日)はテレビでも中継されるが、できれば現地で見てほしい。鉾の重さと動き、囃子の音——あれは映像じゃ伝わらない。

節分(2月3日前後)の豆まきも、追儺の流れを汲む立派な疫病退散行事だ。成田山新勝寺や浅草寺など、大規模なものから地元の神社まで選べる。「鬼は外」の掛け声を上げながら、これが1200年以上続いてきた儀式の子孫だと思うと、ちょっと感慨深くなる。

民俗学的に深掘りするなら

疫病神送りをもっと知りたくなったら、国立民俗学博物館(大阪・吹田)がおすすめだ。日本の民間信仰や年中行事に関する展示が充実していて、疫神や来訪神についての資料も多い。柳田国男の『遠野物語』や宮本常一の著作も、日本の民間信仰の土台を理解するのに役立つ。難しそうに見えて、読み始めると引き込まれる。

あとは地元の民俗資料館や郷土史料館も侮れない。都市伝説や怪談って、「有名な話」ばかりじゃなくて地元に残ってる話が一番リアルだったりする。自分の住んでる地域の疫病神送りの話、意外と残ってることがあるから探してみると面白い。

疫病を「送る」っていう感覚、今のご時世だとちょっとリアルに刺さるものがあるよな。シンヤでした。また深夜に会おう。

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