シンヤだ。京都の夜道を妖怪の大群が練り歩く――百鬼夜行って話、聞いたことあるよな。あれ、ただのファンタジーじゃなくてさ、実際に「どの通りを歩いた」ってルートまで記録が残ってるんだよ。これがまた面白くてさ。
百鬼夜行の京都ルート|歴史に記録された妖怪大行進
百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)――深夜の京都の大路を、異形の者たちが列をなして練り歩く。絵巻物で有名なこのモチーフだが、単なる空想の産物ではない。平安京の社会構造と信仰体系に根ざした、当時の人々にとっての「リアルな恐怖」だった。
現代に暮らす俺たちからすれば、妖怪の行列なんて昔話の世界だ。だが平安時代の人々は違った。夜が来れば通りは闇に沈み、街灯なんてものは存在しない。松明の火がかろうじて照らす狭い範囲を一歩出れば、そこはもう人間の領域ではなかった。そんな時代に「今夜は百鬼夜行の日だから外に出るな」と言われたら、誰だって家に閉じこもるだろう。百鬼夜行は信仰であり、社会制度であり、そして当時の京都を支配した夜のルールだったのだ。
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百鬼夜行の文献的記録
「大鏡」「宇治拾遺物語」の記述
百鬼夜行に関する最古級の記録は、平安時代後期の「大鏡」や「宇治拾遺物語」に残っている。なかでも有名なのが、藤原師輔の遭遇譚だ。師輔は深夜に百鬼夜行と出くわしたが、尊勝陀羅尼の加護によって難を逃れたという。注目すべきは、この説話が「怪談」としてではなく、ほぼ実録に近い筆致で書かれていることだろう。貴族たちにとって、百鬼夜行は夜道で実際に遭遇しうる脅威だったのだ。
「宇治拾遺物語」の記述はさらに具体的だ。ある僧侶が夜中に通りを歩いていたところ、前方から異様な気配が迫ってきた。慌てて門の陰に身を隠し、一心に経を唱えたところ、おぞましい姿の者たちが次々と目の前を通り過ぎていった。その描写が生々しい。目が三つある者、首が異常に長い者、獣のような顔に人間の体を持つ者。ひとつひとつの妖怪を描写するというよりも、「とにかく見たこともない異形の群れが、ぞろぞろと列をなしていた」という恐怖がそのまま文章になっている。
「今昔物語集」に見る遭遇パターン
「今昔物語集」にも百鬼夜行に関連する話がいくつか収められている。面白いのは、遭遇した人間の対処法にパターンがあることだ。成功例はだいたい同じで、「物陰に隠れて経を唱えた」「仏の加護を信じて動かなかった」というもの。一方で失敗例もある。好奇心に負けて覗き見た者は祟られ、逃げ出した者は追いかけられたという。要するに、百鬼夜行に遭遇したらじっとしているのが正解で、下手に動くと命はないぞ、という教訓が込められていた。
この「動くな、見るな」という対処法は、実は日本の怪異譚に共通する構造だ。異界の存在に対して人間ができることは限られている。むしろ何もしないことが最善の策であり、人間の分際で異界に干渉しようとすれば痛い目を見る。百鬼夜行の説話は、そうした日本的な超自然観をもっとも端的に表現したものだと言える。
暦注と百鬼夜行日
平安時代の暦には「百鬼夜行日」という日が設定されていた。この日は外出を控えるべきとされ、陰陽師が管理する暦の体系にしっかり組み込まれていた。つまり百鬼夜行は、個人の体験談や噂話のレベルではなく、朝廷が認めた「公式の脅威」だったわけだ。現代の暦に「大安」「仏滅」が残っているのと構造は同じで、かつてはそこに妖怪の行進日が並んでいたことになる。
百鬼夜行日は陰陽道の理論に基づいて算出されていた。具体的には、干支の組み合わせによって特定の日が「鬼が活発になる日」とされ、その日には夜間外出を避けるよう貴族たちに通達が出された。これは単なる迷信ではなく、朝廷の公式な行事スケジュールに影響を与えるほどの重みを持っていた。大事な儀式が百鬼夜行日と重なれば、日程を変更することすらあったのだ。
興味深いのは、この暦注が貴族だけでなく庶民にも広く浸透していた形跡があることだ。文献には「百鬼夜行日に外出して災難に遭った」という庶民の話も残っており、京都の町全体が百鬼夜行日には夜間外出を控える空気になっていたと推測される。千年前の京都には、暦の上で「妖怪が出る日」が公式に存在し、人々はそれに従って生活していた。現代人の感覚からすると不思議だが、当時は至って真面目な話だったのだ。
陰陽師と百鬼夜行の関係
百鬼夜行を語る上で外せないのが陰陽師の存在だ。安倍晴明に代表される陰陽師たちは、百鬼夜行の日を予測し、その対策を講じる専門家として朝廷に仕えていた。彼らの仕事は天文観測や暦の管理だけではない。鬼や妖怪から都を守る「霊的防衛」も重要な職務だった。
陰陽師が百鬼夜行に対して行っていた対策は多岐にわたる。まず暦注によって危険日を特定し、貴族たちに通知する。次に、百鬼夜行が通ると予測される通りの要所に呪符を設置する。さらに、万が一遭遇した場合の護身用の呪文を教授する。尊勝陀羅尼が百鬼夜行除けとして有名なのは、陰陽師たちがこの経文の効力を保証していたからだ。
つまり百鬼夜行は、陰陽師という専門職が存在し続けるための根拠のひとつでもあった。妖怪の脅威がなくなれば、陰陽師の仕事も減る。そう考えると、百鬼夜行の「伝承管理」には、陰陽師たちのある種の職業的動機も絡んでいたのかもしれない。もちろんこれは現代からの穿った見方であって、当時の人々がそんなふうに考えていたわけではないだろうが。
百鬼夜行のルート
一条通りと堀川
では、百鬼夜行は京都のどこを歩いたのか。記録に繰り返し登場するのが、一条通りと堀川周辺である。一条通りは平安京の北端にあたり、都の「境界」に位置していた。境界とは異界との接点であり、妖怪がもっとも出没しやすい場所と考えられていた。堀川も同様で、都の内と外を隔てる水の境界として機能していた。どちらも「こちら側」と「あちら側」が接する場所――妖怪たちが行進するには、うってつけの通り道だったのだ。
一条通りが百鬼夜行のメインルートとされた背景には、もうひとつ重要な要素がある。平安京の都市計画だ。平安京は中国の長安をモデルに設計された碁盤の目状の都市で、北から南に向かって一条から九条まで通りが走っていた。一条通りは文字通り最北端の大通りであり、その北側はもう都の外、つまり人間の秩序が及ばない領域だった。妖怪は秩序の外側からやってくる。だから一条通りは、彼らが最初に足を踏み入れる場所だったのだ。
朱雀大路と羅城門
一条通りに次いで百鬼夜行との関連が深いのが、朱雀大路と羅城門の周辺だ。朱雀大路は平安京のメインストリートで、都の中央を南北に貫いていた。その南端に位置していたのが羅城門である。羅城門は都の正門であると同時に、都と外界の最大の境界でもあった。
羅城門は平安時代中期にはすでに荒廃が進んでおり、盗賊の巣窟や死体の遺棄場所として恐れられていた。「今昔物語集」の有名な羅城門の話がまさにそれだ。荒れ果てた巨大な門に死体が放置され、鬼婆が住み着いている。こんな場所が妖怪の通り道にならないわけがない。実際、羅城門周辺は鬼の出没地として複数の文献に記録されており、百鬼夜行のルートのひとつに数えられている。
ちなみに朱雀大路自体も、平安時代後期には衰退が著しかった。幅約85メートルという巨大な通りだが、都の人口が右京(西側)から左京(東側)に偏っていったため、朱雀大路の西側は次第に寂れていった。人が減れば荒地が増え、荒地が増えれば怪異の噂が立つ。百鬼夜行のルートは、都市の衰退と密接に連動していたのだ。
大宮通りと北野天満宮周辺
百鬼夜行の目撃情報が集中するもうひとつのエリアが、大宮通りから北野天満宮にかけてだ。北野天満宮といえば菅原道真を祀る神社だが、その創建の背景には怨霊信仰がある。道真の怨霊が雷を落とし、疫病を流行らせたという伝承は有名だろう。怨霊を鎮めるために建てられた神社の周辺は、それ自体が霊的に特殊な場所とされていた。
大宮通りは平安京の主要な南北路のひとつで、内裏(天皇の住居)の西側を通っている。この通りもまた境界的な性質を持っていた。内裏の領域と一般市街地の境目にあたり、夜になれば人通りが途絶える場所だった。百鬼夜行は人気のない大通りを選んで行進するとされていたから、大宮通りは条件に合致していたのだろう。
なぜ「大通り」なのか
ここでひとつ不思議に思わないだろうか。百鬼夜行はなぜ裏路地ではなく大通りを行進するのか。人目を避けるなら細い路地を選びそうなものだが、記録に残る百鬼夜行のルートはどれも都の主要な大路ばかりだ。
これにはいくつかの解釈がある。まず、百鬼夜行は「行列」であるという点が重要だ。行列には格式がある。朝廷の行列が大通りを使うように、妖怪たちの行列もまた、大通りを堂々と進むものとされた。百鬼夜行は単なる妖怪の徘徊ではなく、ある種の「儀式的行進」だったのだ。
もうひとつの解釈は、大通りが夜になると最も闇が深くなるという逆説的な事実だ。平安京の大路は幅が広い。建物から離れている分、松明や灯明の光が届かず、夜の大路はむしろ細い路地よりも暗かったとされる。闇の中にぽっかりと開いた広い空間。それは妖怪が行進するのにふさわしい舞台だった。
百鬼夜行に登場する妖怪たち
絵巻に描かれた異形の者たち
百鬼夜行の妖怪たちを具体的に描いたのが、室町時代に成立したとされる「百鬼夜行絵巻」だ。現存する複数のバージョンが知られているが、最も有名なのは真珠庵本(大徳寺真珠庵所蔵)だろう。この絵巻には、なんとも奇妙な妖怪たちがずらりと描かれている。
注目すべきは、絵巻に登場する妖怪の多くが「付喪神(つくもがみ)」であることだ。付喪神とは、古くなった道具が魂を持って妖怪化したもの。琵琶が手足を生やして踊っている。傘がお化けになって飛び跳ねている。釜が鬼の顔をして歩いている。百鬼夜行絵巻の妖怪は、恐ろしいというよりも、どこかユーモラスで愛嬌がある。
この付喪神の発想が面白い。日本人は古来、道具にも魂が宿ると考えていた。長年使い込んだ道具を粗末に扱えば、怒って妖怪になる。だから道具は大切に使い、古くなったら供養して手放す。百鬼夜行絵巻の付喪神たちは、捨てられた道具たちの復讐パレードでもあったのだ。「物を大切にしないとバチが当たる」という教訓が、妖怪行進のかたちで表現されていたわけだ。
鬼・天狗・河童――定番の面々
百鬼夜行に登場する妖怪は付喪神だけではない。鬼、天狗、河童、ぬらりひょん、一つ目小僧といった、日本妖怪の「オールスター」が勢揃いしている。特に行列の先頭を務めるとされるのが鬼だ。赤鬼、青鬼、角を生やした巨大な鬼が松明を掲げて道を開く。その後ろを、様々な妖怪たちが続いていく。
天狗もまた百鬼夜行の常連だ。長い鼻と赤い顔を持つ天狗は、もともと中国から伝わった存在だが、日本では山の神や修験道と結びついて独自の進化を遂げた。百鬼夜行においては、空を飛ぶ妖怪として行列の上空を飛び回る姿が描かれることが多い。地上を歩く妖怪と空を飛ぶ妖怪がいるという構成が、百鬼夜行の行列に立体感を与えている。
河童は水の妖怪だが、百鬼夜行では陸に上がって行列に参加している。頭の皿を乾かさないように水をかぶりながら歩く姿は、文献の記述ではなく絵巻や後世の創作に見られるものだが、それでも百鬼夜行の構成メンバーとしてすっかり定着している。水辺の妖怪まで陸に上がってくるほどの大イベント、それが百鬼夜行だったということだ。
名もなき妖怪たち
百鬼夜行の行列で最も数が多いのは、実は名前すらない雑多な妖怪たちだ。顔だけの存在、手足が異常に多い存在、動物とも人間ともつかない不定形の存在。絵巻を見ると、名前のある有名妖怪よりも、こうした「よくわからないもの」のほうが圧倒的に多い。
これは当時の人々の恐怖の本質を表していると思う。本当に怖いのは、正体がわかっている鬼や天狗ではなく、何なのかすらわからない「得体の知れないもの」だ。名前をつけられない、分類できない、理解の外にある存在。百鬼夜行の行列にそういう存在が大量に含まれていることが、この怪異の底知れない恐ろしさを際立たせている。
なぜ京都で百鬼夜行が生まれたのか
平安京の都市構造と闇
百鬼夜行が京都を舞台にしているのは偶然ではない。平安京の都市構造そのものが、この怪異を生み出す温床だった。先述の通り、平安京は碁盤の目状に設計されており、大路と小路が整然と交差していた。この整然とした都市計画が、皮肉にも妖怪の行進ルートを提供することになった。
平安京は東西約4.5キロ、南北約5.2キロの広大な都市だった。しかし実際に人が密集していたのは左京(東側)のごく一部で、右京(西側)は早くから衰退し、田畑や荒地が広がっていた。つまり京都は、設計上は立派な大都市でありながら、実態としてはスカスカの「空洞都市」だったのだ。人のいない広い通りが夜になって闇に沈む。そこに異界の者たちが入り込む余地が、物理的にも心理的にも十分にあった。
貴族社会の閉塞と怪異
百鬼夜行の伝承が盛んだった平安時代中後期は、藤原氏による摂関政治の全盛期でもあった。政治の実権は藤原氏が握り、他の貴族たちは出世の見込みもなく閉塞感を抱えていた。そうした社会的な鬱屈が、怪異譚への関心を高めたという見方がある。
現実世界ではどうにもならない不満や恐怖が、百鬼夜行という超自然的な物語に投影された。権力者に逆らえない怒りが鬼の姿になり、理不尽な世の中への嘆きが異形の行列になって夜の都を歩く。百鬼夜行は、平安貴族の精神状態を映す鏡でもあったのかもしれない。
疫病と百鬼夜行
平安時代の京都は疫病に繰り返し襲われていた。天然痘、麻疹、赤痢といった伝染病が流行するたびに、多くの人が命を落とした。当時の医学では感染症のメカニズムは理解されておらず、疫病は鬼や怨霊の仕業と考えられていた。
百鬼夜行と疫病の関連を示す記述もある。百鬼夜行が通った後に疫病が流行した、百鬼夜行に遭遇した者が病に倒れたといった記録だ。現代の視点で見れば、疫病の流行と百鬼夜行の目撃情報が偶然重なっただけかもしれない。だが当時の人々にとっては、因果関係は明白だった。あの異形の者たちが病をまき散らしていったのだ、と。
こう考えると、百鬼夜行の「行進」という形態にも合点がいく。疫病は街道を伝って広がる。人やモノの移動に伴って、ある場所から別の場所へと伝播していく。その動きを可視化したのが、通りを練り歩く妖怪の行列だったのではないか。百鬼夜行は、疫病という目に見えない脅威に、妖怪という目に見える姿を与えたものだったのだ。
百鬼夜行と日本の境界信仰
辻と四つ辻の呪術的意味
百鬼夜行のルートを語る上で避けて通れないのが、「辻(つじ)」の存在だ。辻とは道の交差点のことで、日本では古来、霊的に特別な場所とされてきた。二つの道が交わる場所は、二つの世界が交わる場所でもある。辻占(つじうら)という占いが辻で行われていたのも、そこが異界との接点だと考えられていたからだ。
特に四つ辻(十字路)は強力な霊的スポットとされた。四方から道が集まる場所は、四方から妖怪も集まる場所。百鬼夜行の行列が四つ辻を通過する時がもっとも危険で、その瞬間に外にいた人間は確実に災難に遭うと言われていた。京都の碁盤の目状の都市計画は、大量の四つ辻を生み出した。つまり京都という都市そのものが、妖怪の通り道として「最適化」されていたのだ。
橋と川の境界性
堀川が百鬼夜行のルートに含まれている理由のひとつが、川や橋が持つ境界としての性質だ。日本の伝承において、川は此岸と彼岸を分ける境界であり、橋はその境界を越える装置だった。三途の川の概念がその最たるものだろう。
京都には鴨川、堀川、桂川といった複数の川が流れており、それぞれが異界との境界として認識されていた。特に堀川は都の中を流れる川であり、橋がいくつもかかっていた。妖怪は橋を渡って人間の世界に入り込み、川沿いを行進する。一条戻橋(いちじょうもどりばし)が怪異スポットとして有名なのも、橋という境界装置の上で異界と人間界が接触しやすいと考えられていたからだ。
安倍晴明が一条戻橋の下に式神を隠していたという伝説は有名だが、これも橋の境界性と関係している。人間の世界と異界の境目にあたる橋の下は、式神のような霊的存在を配置するのに最適な場所だった。百鬼夜行が堀川沿いを通るのは、川と橋が生み出す境界のエネルギーに引き寄せられてのことだったのかもしれない。
鬼門と裏鬼門
平安京の都市設計には、陰陽道の「鬼門」の概念が深く組み込まれていた。鬼門とは北東の方角で、鬼(邪悪なもの)が出入りする方角とされた。平安京の鬼門にあたるのが比叡山で、延暦寺が置かれたのは鬼門を守護するためだ。逆に南西が裏鬼門で、こちらには石清水八幡宮が鎮座していた。
百鬼夜行のルートが北寄りに集中しているのは、鬼門との関連が指摘されている。妖怪は北東の鬼門から都に侵入し、一条通りを西へと行進する。そして都の西側の荒廃した地域へ消えていく。この東から西への動きは、鬼門から裏鬼門への流れとも一致する。百鬼夜行のルートは、陰陽道の世界観に沿って設定されていたのだ。
百鬼夜行絵巻の世界
真珠庵本の特徴
百鬼夜行を視覚的に表現した作品として最も重要なのが、大徳寺真珠庵に所蔵されている「百鬼夜行絵巻」だ。室町時代の作とされるこの絵巻は、全長約12メートルに及ぶ大作で、数十体の妖怪が夜の闇を行進する様子が描かれている。
真珠庵本の最大の特徴は、妖怪たちがどこか楽しそうに見えることだ。太鼓を叩いている者、踊っている者、仲間とじゃれ合っている者。恐ろしいはずの百鬼夜行が、まるで祭りの行列のように描かれている。これは室町時代の美意識を反映したものだろう。平安時代には「恐怖の対象」だった百鬼夜行が、数百年の時を経て「面白がる対象」に変化していたことがわかる。
絵巻のラストシーン――朝日の描写
百鬼夜行絵巻で見逃せないのがラストシーンだ。妖怪たちの行列が延々と続いた後、絵巻の最後に描かれるのは朝日だ。東の空から太陽が昇り、その光を浴びた妖怪たちが一斉に消え去る。あるいは慌てて逃げ出す。闇の支配が終わり、光が世界を取り戻す瞬間。百鬼夜行絵巻は、この朝日のシーンで幕を閉じる。
このラストシーンは単なる物語の結末ではなく、当時の世界観をよく表している。夜は妖怪の時間であり、朝は人間の時間。太陽の光は浄化の象徴であり、どんな妖怪も日の光には勝てない。百鬼夜行は夜限定の現象であり、朝が来れば必ず終わる。そこに当時の人々の安心感があった。恐ろしい一夜を耐え抜けば、朝日が妖怪を追い払ってくれる。百鬼夜行は、闇と光の交代劇でもあったのだ。
後世の百鬼夜行図――鳥山石燕の功績
百鬼夜行の妖怪たちを体系的に図鑑化したのが、江戸時代の浮世絵師・鳥山石燕(とりやませきえん)だ。石燕は「画図百鬼夜行」をはじめとする妖怪画集を複数刊行し、百を超える妖怪にひとつひとつ姿と名前を与えた。現代の日本人が思い浮かべる妖怪のビジュアルは、かなりの部分が石燕の絵に基づいている。
石燕の功績は、それまで曖昧だった妖怪の姿を「標準化」したことだ。同じ妖怪でも地方や時代によって描かれ方が異なっていたものを、石燕が決定版のビジュアルを提示した。これによって百鬼夜行の行列に参加する妖怪たちのイメージが固定され、後世の創作物に計り知れない影響を与えた。現代の漫画やアニメ、ゲームに登場する妖怪デザインの多くは、突き詰めれば石燕の絵にたどり着く。
現代への遺産
一条百鬼夜行イベント
この百鬼夜行、じつは現代に復活している。京都の一条通り商店街では毎年「一条百鬼夜行」というイベントが開催されていて、妖怪のコスプレをした参加者が夜の通りを練り歩く。かつて人々が恐れ、外出を控えたあの行列が、いまでは仮装パレードになっているのだから不思議なものだ。千年の時間が、恐怖を祝祭に変えた。
このイベントが始まったのは2005年のこと。一条通り商店街の活性化を目的として企画されたものだが、「かつて百鬼夜行が通ったとされる通りで、実際に妖怪の行列をやる」というコンセプトが見事にはまった。毎年秋に開催され、手作りの妖怪コスプレを身にまとった数百人の参加者が一条通りを練り歩く。沿道には見物客があふれ、かつての恐怖の通りが歓声と笑い声に包まれる。
百鬼夜行とポップカルチャー
百鬼夜行は現代のポップカルチャーにも深く浸透している。「ゲゲゲの鬼太郎」「ぬらりひょんの孫」「夏目友人帳」といった漫画・アニメ作品には、百鬼夜行をモチーフにしたエピソードがたびたび登場する。妖怪が行列を組んで練り歩くという視覚的にインパクトのあるイメージは、物語の見せ場として実に使いやすいのだ。
ゲームの世界でも百鬼夜行は人気のモチーフだ。「陰陽師」「妖怪ウォッチ」「大神」など、日本の妖怪をテーマにしたゲームでは、百鬼夜行がイベントやステージとして頻繁に採用されている。プレイヤーが妖怪の行列と戦ったり、逆に百鬼夜行に参加したりする。千年前に人々を恐怖させた妖怪の大行進が、いまではエンターテインメントのコンテンツとして消費されているわけだ。
百鬼夜行スポットを歩く現代の京都
百鬼夜行のルートは、現代の京都でも実際に歩くことができる。一条通り、堀川通り、大宮通り、いずれも現役の通りだ。もちろん今は街灯が整備され、車が行き交い、コンビニの明かりが夜道を照らしている。平安時代の闇はもうそこにはない。
だが、深夜の京都を歩いてみると、ふとした瞬間に「あの闇」の気配を感じることがある。特に一条通りの西の方、住宅街に入ったあたりは夜になると驚くほど静かだ。街灯の間隔が広くなり、古い町家の影が通りに落ちる。風が吹けば軒先の何かがカタカタと鳴る。そんなとき、千年前のこの通りを異形の者たちが歩いていたのだと思うと、背筋がぞわっとする。京都は表向き観光都市だが、夜の顔はまた違う。千年分の記憶が地面の下に堆積している街なのだ。
百鬼夜行が教えてくれること
百鬼夜行を単なる昔話として片付けるのは簡単だ。妖怪なんていない、迷信だ、と。それは事実だろう。だがもう少し踏み込んで考えると、百鬼夜行が伝えているのは「人間は闇を恐れる生き物だ」という根源的な真実だ。電気のない時代、夜は本当に暗かった。その暗闇の中で何かが蠢いている気配を感じたとき、人はそれに名前をつけ、物語をつけ、対処法を考えた。百鬼夜行とは、人類が闇と折り合いをつけるために生み出した壮大な物語体系だったのだ。
そして京都という都市は、その物語に具体的な「ルート」を与えた。一条通り、堀川、朱雀大路、羅城門。妖怪たちは京都の実在する通りを歩き、実在する場所で目撃された。このリアリティこそが百鬼夜行を単なるファンタジーから、社会的な制度(百鬼夜行日)にまで昇格させた要因だろう。場所があるから物語が生まれ、物語があるから信仰が生まれ、信仰があるから制度が生まれた。百鬼夜行は、想像力が現実を動かした稀有な例なのだ。
千年前の京都の夜道、歩いてみたいような歩きたくないような、そんな気分になるだろ。次に京都を訪れることがあったら、夜の一条通りを歩いてみてくれ。街灯に照らされた普通の通りに見えるはずだ。でも、ふと風が止んで静寂が降りた瞬間、千年前の闇が一瞬だけ顔を覗かせるかもしれない。シンヤでした。じゃあな、また深夜に付き合ってくれ。