その赤いただれは、鬼が触れた跡だった
平安時代の京の都に、ある夜、奇妙な噂が広まった。
「鬼が通ると、人の顔が赤く腫れ上がる」
それは単なる迷信だったのか。それとも、当時の人々が命がけで向き合った「何か」の記録なのか。
今でも節分に鬼を追い払う風習がある。豆を投げて「鬼は外」と叫ぶ。あの儀式の奥底には、平安時代に何万人もの命を奪った疫病の恐怖が眠っている。
「疱瘡(ほうそう)」「もがさ」と呼ばれた感染症。今でいう天然痘に近い病だ。顔や体を赤い発疹で覆い、高熱を出し、多くの人の命を奪った。当時の人々はその正体が分からなかった。だから、鬼のしわざだと考えた。
怖いのは、その「鬼=疫病」という信仰が、単なる迷信にとどまらなかったことだ。平安貴族も、庶民も、朝廷の役人たちでさえも、本気でそれを信じていた。そして実際に、その信仰が人々の行動を変え、社会そのものを動かした。
この記事では、平安時代の疫病と鬼の結びつきを、歴史的な記録と民俗学の視点からひもとく。現代の私たちが知らない、怖くて奇妙な「病の神話」の話だ。
ひとつだけ先に言っておく。この話を読み終わったあと、節分の意味が少し変わって見えるはずだ。
「もがさ」「疱瘡」とはどんな病だったのか
まず、「もがさ」と「疱瘡」について基本的なことを整理しておきたい。
「疱瘡(ほうそう)」は、天然痘(てんねんとう)のことを指すことが多い。ただし、平安時代の文献では、水ぼうそうや麻疹(はしか)など、似たような症状の感染症も「疱瘡」「もがさ」と呼ばれていたようだ。当時の人々に現代的な医学知識はなかったから、発疹が出て高熱が出る病は、まとめて「もがさ」の一言で語られていたと考えられている。
「もがさ」という言葉の語源については、いくつかの説がある。「藻瘡(もがさ)」、つまり水草のようにぶつぶつと広がる瘡(かさ)、という説もあれば、体に「燃え(もえ)」のような感覚をもたらすからという説もある。どちらが正しいか、今でも定説はない。
症状のすさまじさ
症状は、現代の記録から想像すると恐ろしいものだった。
最初は発熱。次第に体中に赤い発疹が現れる。発疹はやがて膿を持った水疱になり、顔や手足を覆い尽くす。治っても顔や体に深いあばたが残ることが多かった。平安時代の文学や絵巻物には、あばた面の人物が描かれているものもある。
特にひどい場合は、口や喉の中にも発疹ができた。ものが食べられなくなり、呼吸すら苦しくなる。高熱が何日も続き、意識が朦朧とした状態で死んでいった人も多かったと考えられている。
致死率は非常に高かった。現代の研究では、天然痘の致死率は感染者の20〜60%に達することもあるとされている。抗生物質も、ワクチンも、隔離施設もなかった時代に、これだけの病が流行したとしたら、どれほどの恐怖だったか。
さらに厄介だったのは、一度生き残っても安心できなかったことだ。天然痘には免疫ができるが、当時それを知る術はない。なぜ自分だけが助かったのか、なぜ隣人は死んだのか。その問いに答えられる者は、当時誰もいなかった。
奈良・平安時代の流行記録
平安時代には、この病が何度も大規模に流行した記録が残っている。『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、奈良時代から疱瘡の流行が記録されている。
特に記録に残るのが、天平9年(737年)の大流行だ。当時の最高権力者・藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)がほぼ同じ時期に死亡した。政争に巻き込まれた者たちが次々と倒れたのではない。疱瘡によって全員が命を落としたのだ。権力の頂点にいた人間ですら、この病の前では無力だった。
平安時代に入っても、疫病の流行は繰り返された。貴族の日記や物語文学にも、身内を病で失った記述が残されている。藤原定家(ふじわらのさだいえ)の日記『明月記(めいげつき)』にも、周囲の人々が疫病で倒れていく記述がある。
そして、その病の正体が分からなかったから、人々は「鬼のしわざ」と結論づけた。見えない敵に、目に見える「鬼」という名を与えることで、恐怖を理解可能なものにしようとした。それが、この物語の出発点だ。
疫病は鬼が運んでくる|平安時代の信仰と歴史的背景
平安時代の人々にとって、「鬼」はただの空想上の生き物ではなかった。
鬼は実在した。少なくとも、当時の人々はそう信じていた。
現代人の感覚で「迷信」と片付けるのは簡単だ。でも、それは少し違う気がする。当時の人々は、自分たちの知識の範囲で、できる限り「病の正体」を理解しようとしていた。その結果として生まれたのが、鬼という概念だった。
「御霊信仰」が生んだ恐怖
平安時代の怪異信仰を語るとき、外せない概念がある。「御霊(ごりょう)」だ。
御霊とは、無念の死を遂げた人間の霊のことを指す。戦に敗れた武将、政争に巻き込まれて命を落とした貴族、恨みを残したまま死んだ者たちの霊が、生きている人間に祟りをもたらすという信仰だ。
有名なのは、菅原道真(すがわらのみちざね)の怨霊だ。藤原氏の陰謀によって大宰府(だざいふ)に左遷された道真は、その地で死んだ。すると京の都では雷が落ち、疫病が流行し、道真の政敵たちが次々と死んでいった。当時の人々は、これを道真の怨霊の祟りだと信じた。道真を神として祀ったのが、今でも残る天満宮の始まりとされている。
このような御霊信仰の中で、疫病は「恨みを持った死者が引き起こすもの」と理解されていた。疫病が流行するたびに、「誰の怨霊が祟っているのか」を探ろうとした。
御霊信仰のもう一つの側面として重要なのは、「祟られる側にも理由がある」という考え方だ。理不尽に命を奪われた者の怨念が病をもたらすとすれば、権力者たちは自らの行いを振り返らざるを得ない。御霊信仰は、単なる迷信ではなく、権力への牽制機能も持っていたとも言われている。
疫病神と鬼の結びつき
さらに注目したいのは、「疫神(えきじん)」という概念だ。
平安時代には、疫病そのものに神格があると考えられていた。疫病を運んでくる存在として「疫神」が想定され、その姿が次第に「鬼」と結びついていった。
鬼は古代の日本では、もともと「おに」ではなく「おぬ」と読まれ、「隠れた存在」「見えないもの」を意味していたという説がある。病の原因が見えないように、鬼も見えない。この共通点が、「病は鬼がもたらすもの」という信仰を強化していったと考えられている。
鬼の「見えない」という本質は、現代でも生きている。お化け屋敷の鬼は、暗闇から突然現れる。突然に、理由もなく、取り憑かれたように現れる病の性質と重なる。
平安時代の陰陽師(おんみょうじ)たちは、疫病が流行すると「疫鬼祓い(えききはらい)」を行った。呪文を唱え、護符を作り、鬼を追い払うことで病を鎮めようとしたのだ。陰陽師は現代でいえば、医師と神職と占い師を一人に混ぜたような存在だ。彼らの力が信じられていたということは、それだけ人々が「科学的解決策」を持っていなかったことを示している。
「追儺(ついな)」という儀式
現代の節分の原型となったのが、「追儺(ついな)」という宮廷儀式だ。
大晦日の夜、宮廷では「方相氏(ほうそうし)」と呼ばれる役人が登場した。方相氏は黄金の四つ目の仮面をかぶり、槍と盾を持って宮中を歩き回る。その目的は、疫鬼を追い払うことだった。
方相氏の四つ目の仮面というのが、独特だ。鬼は見えない存在だが、四つ目を持つ者は鬼を「見通す」ことができる、という発想なのかもしれない。病の原因を「見る」ことができれば、払うことができる。見えない恐怖に、見る力で対抗しようとした儀式とも読める。
ここで注目してほしいのは、「疱瘡(ほうそう)」と「方相氏(ほうそうし)」の読みが同じである点だ。偶然なのか、それとも何らかの関係があるのか、民俗学者の間でも意見が分かれている。「疱瘡を払う者=方相氏」という発想がそのまま名称になったという説もある。
方相氏が追い払う「疫鬼」は、もがさや疱瘡をもたらす存在として信じられていた。この儀式が毎年繰り返されたことは、当時の人々がどれだけ疫病の恐怖に支配されていたかを物語っている。
追儺の儀式はやがて庶民の間にも広まり、豆まきとして形を変えていった。大豆を「魔目(まめ)」、つまり鬼の目に見立てて投げつけることで鬼を退治する、という解釈が江戸時代頃から定着した。ただし一方で、豆は「魔滅(まめ)」つまり魔を滅する、という語呂合わせで選ばれたという説もある。どちらにしても、この儀式が「病や災いを追い払いたい」という切実な願いから来ていることは確かだ。
疱瘡の神様「疱瘡神(ほうそうがみ)」
興味深いことに、疱瘡は「神様」にもなった。
「疱瘡神(ほうそうがみ)」は、もがさをもたらす神として、ある意味で「祀られた」。病そのものを神格化し、丁重にもてなすことで被害を最小限に抑えようとする発想だ。これは、疫病への対応として非常に特徴的な日本的な信仰の形といえる。
疱瘡神は赤いものを好むという伝承がある。そのため、疱瘡の患者がいる家には赤い布が飾られ、患者には赤いものを身につけさせたという記録が残っている。赤鬼のイメージも、ここから来ているという説がある。
現代の節分で赤鬼が出てくるのも、この流れと無関係ではないかもしれない。
また、疱瘡神はしばしば「旅人の姿をしている」と言われた。見知らぬ旅人が家を訪ねてきたあとに、家族が疱瘡にかかる、という話が各地で語られた。感染症は人から人へ、旅人によって運ばれることが多かったという事実を、当時の人々は経験的に知っていたのかもしれない。「知らない人を家に入れるな」という教訓が、「疱瘡神は旅人の姿をしている」という伝承に変換されたと考えることもできる。
記録に残る恐怖|証言・体験・目撃の記述
当時の人々が疫病に対してどれほどの恐怖を抱いていたか、実際の記録を見てみよう。
藤原道長の時代に何が起きたか
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
この歌を詠んだのは、平安時代最大の権力者・藤原道長(ふじわらのみちなが)だ。彼が権力の絶頂を謳歌した11世紀初頭、日本では何度も疫病が流行していた。
道長自身の日記『御堂関白記(みどうかんぱくき)』には、身内の死の記録がいくつも残されている。当時、天然痘や赤痢(せきり)などの感染症は、位の高い貴族の屋敷にも容赦なく入り込んだ。権力があっても、財力があっても、疫病の前では平民と同じだった。
特に子供への影響は大きかった。平安時代の子供の死亡率は現代と比べ物にならないほど高く、疱瘡はその最大の原因の一つだったとされている。多くの子供を失った貴族の日記には、「鬼の仕業に相違ない」という趣旨の記述が残されているという。
『源氏物語』の中にも、病で死んでいく人々の描写がある。作者の紫式部自身、周囲で多くの人が疫病で命を落とすのを目撃していたはずだ。光源氏の愛した女性たちが次々と謎の病で死んでいく展開は、フィクションでありながら、当時の現実の反映でもあったかもしれない。
今昔物語が記録した「もがさの鬼」
平安末期にまとめられた説話集『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』には、疫病と鬼を結びつける話がいくつか収録されている。
その一つが、こんな趣旨の話だ(現代語に要約している)。
ある夜、京の通りを一人の男が歩いていると、前方から奇妙な集団が現れた。顔は人間に見えるが、目が光り、体から妙な臭いがする。その集団が通り過ぎると、周囲の家々から病人の呻き声が聞こえてきた。翌日、その通りに住む人々が次々と高熱と発疹で倒れた。人々は「あの集団こそが疫鬼の一群だった」と囁き合った、という。
これは創作に過ぎないかもしれない。しかし、当時の人々が「鬼が通ると疫病になる」という説を、本気で信じていたことを示している。
『今昔物語集』はいわば平安末期の「都市伝説集」のようなものだ。実際に語られていた噂や体験談が、形を整えて収録されている。つまり、この話は誰かが実際に「鬼を見た」と証言し、その直後に疫病が流行したという体験をもとにしている可能性が高い。
鬼を見た=病人が出た、という経験が何度も繰り返されれば、「鬼が病をもたらす」という結論に至るのは自然なことかもしれない。実際には、夜に見知らぬ集団が京に入ってきて(旅人や行商人)、彼らが持ち込んだウイルスが感染を広げた、という可能性が高い。「鬼のような集団」の正体は、遠方から来た感染者だったのかもしれない。
民間に残る「赤い痕の話」
民俗学の調査によって、各地の農村部に「もがさにまつわる怪談」が伝えられていることが分かっている。
ある地方では、こんな話が語られていた。夜中に赤い着物を着た子供の姿を見た翌日に、高熱と発疹が出た、という体験談だ。その子供こそが疱瘡神の使いだという解釈がなされていた。
別の地域では、「見知らぬ老婆が家に来て茶を一杯飲んでいったら、翌日から家族が疱瘡にかかった」という話が伝わっている。この老婆が疱瘡神の化身だったというわけだ。
これらの話に共通しているのは、「病は外からやってくる何かによってもたらされる」という感覚だ。細菌やウイルスの概念を持たなかった人々が、病の到来を「訪問者」というイメージで理解しようとした結果とも言えるかもしれない。
実際、感染症は「外からくる」ものだ。見知らぬ旅人、交易商人、遠方からの使者。彼らが持ち込んだウイルスが集落に広がる。当時の人々が「知らない人間が来た→病気になった」という因果関係を経験的に学んでいたとしたら、「疱瘡神は旅人の姿をして訪ねてくる」という伝承は、かなり正確な観察に基づいていることになる。
ある神社に残る絵馬の記録
京都近郊のある神社には、江戸時代に奉納された絵馬が残っている(神社名は伏せる)。そこには、赤い肌をした鬼のような存在が、人々の体に触れている場面が描かれている。絵馬の奉納者は、「もがさにかかった子供が回復したことへの感謝」を記している。
つまり、もがさを「鬼によってもたらされた試練」と受け取り、その鬼を祀る神社に感謝を捧げることで、病との決着をつけようとしたのだ。
鬼を追い払うのではなく、鬼に感謝する。この複雑な感情の動きが、平安時代以来の疫病信仰の核心にある。
怖いものを恐れるだけでなく、怖いものを神として祀ることで共存しようとする。これは日本の宗教観の根本的な特徴でもある。荒ぶる神を鎮めることで加護を得る「荒魂(あらみたま)と和魂(にぎみたま)」の概念と、疫病信仰は深いところでつながっている。
長尾さんが調べた地方の疱瘡伝承
このブログを運営している長尾さんは、以前、京都から離れた農村地帯の古い民家に泊まる機会があった。その地域には、今でも「赤い紙を玄関に貼る」風習がわずかに残っているという。
家主の老人に聞くと、「昔から疫病のときはこうするものだと言われてきた。なぜかは分からない」という答えが返ってきた。ご本人に意味の説明はできなかったが、「赤いものが病除けになる」という感覚だけが、何百年も受け継がれていたのだ。
意味は忘れても、行動だけが残る。その行動の奥に、平安時代の疱瘡神信仰があったとしたら、文化というのは想像以上に深い根を持っているのだなと感じた、と長尾さんは話していた。
科学と民俗学から見た「鬼=疫病」という信仰
現代の視点から、この「鬼=疫病」という信仰を考えてみると、非常に興味深いことが見えてくる。
「見えない敵」を見える形にする心理
感染症の恐ろしさの一つは、敵が見えないことだ。
ウイルスや細菌は目に見えない。なぜ自分が病気になったのか、どこから感染したのかが分からない。現代でも、新型コロナウイルスの感染源が特定できないケースは多い。情報があふれている現代人でさえ、見えない病に不安を感じる。
まして平安時代の人々にとって、病の原因は完全に不明だった。見えない敵を、「鬼」という見える形に変換することで、恐怖に輪郭を与えようとした。民俗学者の中には、この「見えないものを可視化する」行為を、人間の根本的な認知パターンとして捉える研究者もいる。
心理学的に言えば、「何が起きているか分からない」状態は「何が起きているか分かっている」状態よりもはるかに強いストレスをもたらす。病の原因が「鬼」だと分かれば(信じれば)、少なくとも「鬼を払えばいい」という対処法が生まれる。原因不明の恐怖より、原因が「鬼」であることの方が、心理的にはまだ扱いやすいのだ。
集団免疫と「鬼を追い払う儀式」の関係
追儺や節分の儀式が持つ意味を、感染症対策の観点から読み解こうとする試みもある。
儀式では、大きな声を出し、動き回り、火を焚く。これらの行動が、どの程度感染症予防に効果があったかは不明だが、少なくとも人々が「病に対して何か行動を起こしている」という感覚を持つことができた。心理的な安心感が免疫機能に影響するという研究もあるため、全くの無意味とは言いにくい。
また、儀式を通じて集落全体が協力し、「病から守る」という意識を共有することは、実際の感染者を隔離したり、見知らぬ人の訪問を制限したりするという行動にもつながったかもしれない。
もう一つ見逃せないのが、節分前後の季節的な意味だ。旧暦の節分は、冬から春への切り替わりの時期にあたる。気温変化が激しく、体の抵抗力が下がりやすい季節だ。この時期に「病除けの儀式を行う」という習慣は、感染症リスクが高まる季節への警戒を促すという意味でも、一定の合理性があったとも言えるかもしれない。
赤という色の持つ意味
疱瘡神が赤いものを好むという伝承、そして赤い布や赤いものを患者に与えるという習俗。この「赤」へのこだわりには、何らかの意味があるのだろうか。
一つの仮説として、赤色光線が天然痘の発疹(特に膿疱)に対して何らかの効果を持つという話がある。19世紀末にデンマークの医師ニルス・フィンゼンが光線療法を研究し、赤色光が天然痘の発疹を軽減するという報告をしている。もし平安時代の人々が経験的にこれを知っていたとしたら、「疱瘡神は赤いものが好き」という信仰には、意外なほど実用的な背景があることになる。
ただし、これはあくまで一つの仮説に過ぎない。赤は日本古来から「魔除け」の色とされており、単純にその延長として疱瘡除けにも使われたとみる方が素直かもしれない。
それでも、古代人の「経験知」というものは馬鹿にできない。長い時代をかけて積み重ねられた経験の中には、現代科学が後から証明する「正しさ」が含まれていることがある。赤色と疱瘡の関係が、その一例である可能性はゼロではないと思う。
鬼の「牛の角」と疫病の関係
日本の鬼が牛の角を持つのはなぜか、考えたことがあるだろうか。
一つの説によれば、鬼の角は干支(えと)に関係している。鬼門(きもん)は丑寅(うしとら)の方角、つまり北東の方角とされていた。丑(うし)の角を持ち、寅(とら)の縞模様の腰布をまとう鬼の姿は、「鬼門から来る存在」を視覚化したものとも言われている。
そして疫病の流行が北方・東方から来ることが多かった時代(シルクロードを通じた交易で感染症が伝播したという説もある)、「北東=鬼門=疫病」という連想が生まれたとしても不思議ではない。
実際、歴史的に見ると、感染症の多くはユーラシア大陸から日本列島へと伝わってきた。遣唐使や渡来人が持ち込んだ感染症が、何度も日本で大流行している。「外から来るもの」という感覚は、かなり的を射ていたとも言える。鬼が大陸の方角・北東からやってくるという信仰は、疫病の伝播ルートを直感的に反映していたのかもしれない。
呪術的対処と実際の効果のはざまで
「鬼を払う」という行為には、直接的な医療効果はない。これは現代から見れば明らかだ。
しかし、社会的な効果はあったかもしれない。疫鬼払いの儀式を行うとき、人々は集まって祈り、そして終わったあとは家に戻る。感染者と非感染者が交わる機会を儀式が生んでしまうという側面もある。だが一方で、儀式を通じて「感染者を出した家族は祓いを受けるべきだ」という観念が広まれば、感染者の隔離につながる可能性もある。
陰陽師が発行した「護符」も同様だ。護符そのものに医学的効果はないが、護符を持った人が「自分は守られている」と信じることで精神的に安定し、日常行動を維持できるならば、パニックによる社会崩壊を防ぐ効果はあったかもしれない。
感染症への対処は、医学だけでなく社会学でもある。集団がどう反応するかが、被害の規模を大きく左右する。平安時代の疫病信仰が、ある意味でその「社会的対処システム」として機能していたと見ることもできるのだ。
現代でも消えない「もがさの記憶」|なぜこの信仰は続くのか
天然痘は1980年にWHO(世界保健機関)によって根絶が宣言された。人類が意図的に絶滅させた唯一の感染症だ。
それなのに、なぜ疱瘡神の伝承や節分の儀式は今でも残っているのか。
感染症の恐怖は消えていない
理由の一つは、感染症の恐怖そのものがなくなっていないからだろう。
2020年以降、新型コロナウイルスのパンデミックを経験した私たちは、「見えない敵に命を奪われる」という恐怖が現代でも生き生きとしていることを知った。マスクをつけ、手洗いを徹底し、知らない人との接触を避けた。これは現代的な「疫鬼払い」と言えるかもしれない。
コロナ禍の初期には、「疫病退散」と書かれたアマビエ(江戸時代の疫病除けの妖怪)のイラストがSNSで大量に拡散された。人々が苦しい時に、古い伝承や信仰に救いを求めるという行動は、平安時代と何も変わっていない。
科学が進歩しても、人間の「名前のない恐怖への対処法」は変わらないのかもしれない。ワクチンを打っていても、感染の不安は消えない。その不安をどこかに向けたいとき、人は「鬼」という概念を探す。形は違っても、本質は同じだ。
「名前のない恐怖」に名前をつける力
疫病を「鬼の仕業」と名付けた平安の人々。アマビエを描いて「コロナ退散」を祈った現代の人々。
どちらも、「名前のない恐怖に名前をつける」という行為をしている。名前をつけることで、恐怖は少しだけ扱いやすくなる。鬼は怖い。でも、鬼には追い払う方法がある。疫神は怖い。でも、疫神には祀る方法がある。
逆に言えば、名前のない恐怖は最も人を追い詰める。原因不明の病、正体不明の感染、出口の見えない不安。それに「鬼」という名をつけた平安の人々の知恵は、現代の精神医学が「物語療法」と呼ぶものに近いかもしれない。
物語療法とは、自分の経験に物語の形を与えることで、混乱した感情を整理するアプローチだ。「なぜ自分が病気になったのか」という問いに「鬼のせいだ」と答えることは、一見荒唐無稽に見える。しかしそれは「出来事に理由を与え、対処法を生み出す」という点で、物語療法的な機能を持っていた。
節分は今でも「疫鬼払い」だ
2月の節分に豆をまく風習は、今でも日本全国で続いている。「鬼は外」と叫ぶとき、私たちは1000年以上前の疫病の記憶を無意識に繰り返しているのかもしれない。
恵方巻きが節分に食べられるようになったのは比較的最近のことだが、豆まきの儀式は少なくとも奈良時代から続く記録がある。それだけ長い歳月をかけて受け継がれてきたということは、この儀式が人々の心に必要とされてきたということでもある。
特に子供たちが節分の鬼を怖がるのは、なぜか。鬼のコスチュームを着た大人を見ただけで泣き出す子供は多い。大人になってから考えれば、コスチュームの中は人間だと分かる。でも子供の目には、本物の鬼に見える。
この「子供だけが本物の鬼を見る」という感覚は、免疫を持っていない存在が真実を見通す、という象徴的な意味を持つかもしれない。かつて疱瘡が最も多くの命を奪ったのも、子供だった。節分の鬼が子供を最も怖がらせるのは、何かを引き継いでいるのかもしれない。
妖怪は「時代の病」の記録媒体だ
民俗学者の中には、「妖怪は時代の病の記録媒体だ」という見方をする人もいる。
疱瘡神、疫鬼、赤い鬼。これらは単なる迷信ではなく、当時の人々が経験した具体的な恐怖、具体的な病の記録が変換されたものだという考え方だ。
妖怪の話を読むとき、単に「昔の人は迷信深かった」で終わらせるのは勿体ない。その妖怪が生まれた時代、その地域で何が起きていたかを調べると、妖怪の正体が見えてくることがある。そして正体が見えると、妖怪はもっと怖くなる。なぜなら、それは実際に起きたことの記憶だから。
「もがさの鬼」も、その一つだ。赤い発疹を持つ病が何万人もの命を奪った事実が、形を変えて「赤い鬼が人を苦しめる」という物語になった。それが今も節分という形で残っている。
あなたが知らない「もがさ伝承」の深い層
ここまで読んできて、疱瘡と鬼の結びつきについて、かなり深く理解できたはずだ。最後に、あまり知られていないいくつかの視点を加えておきたい。
「お岩さん」と疱瘡の関係
江戸時代の怪談「東海道四谷怪談」に登場するお岩は、顔が変形して化け物のような姿になる。あの変形した顔の描写は、疱瘡(もがさ)にかかった患者の顔がモデルとも言われている。
お岩が「毒を盛られて顔が醜くなる」という展開には、当時の人々が日常的に目にしていた「疱瘡によって顔が変わってしまった人々」のイメージが投影されていると見ることもできる。怪談の中にも、疫病の記憶は刻まれていた。
疱瘡に「神の意志」を見た人々
平安時代の仏教の影響もあって、疱瘡は「前世の因果」として語られることもあった。現世で徳を積まなかったから、鬼に憑かれた。病は神や仏からの試練だ、という解釈だ。
これは一見、残酷な発想に見えるかもしれない。しかし、この解釈が持つ機能もあった。「なぜ自分が病気になったか」に答えが与えられる。そして「これは試練だから、乗り越えれば悟りに近づく」という希望にもなる。
疱瘡を「鬼のせい」とも「前世の業のせい」とも語れた当時の人々は、ある意味で現代人よりも柔軟な「病の意味づけ」のリソースを持っていたとも言えるかもしれない。
疱瘡神を送り出す儀式
疱瘡が回復すると、今度は「疱瘡神を送り出す」儀式が行われた地域もあった。玄関先に飾った赤い布や人形を、丁寧に外へ持ち出し、川に流したり、村の境界まで送り届けたりする。
これは「神様にお帰りいただく」という発想だ。病をもたらした存在を敵として叩きのめすのではなく、「来てくださった。去ってください」という形で終わらせる。
この感覚は、現代の日本人にも残っている気がする。悪いものを「倒す」より「鎮める」「送り出す」という発想。怒りではなく礼儀で対処する、独特の感性の源流の一つが、疱瘡神信仰にあるのかもしれない。
まとめ|赤い鬼の正体は、1000年前の疫病だった
平安時代の「もがさ」「疱瘡」と鬼の信仰について、ここまで見てきた。
改めてポイントを整理しておこう。
・「疱瘡(もがさ)」は平安時代に何度も大流行した感染症で、天然痘に近い病と考えられている。
・当時の人々は病の原因が分からなかったため、「鬼のしわざ」として理解した。
・「御霊信仰」との結びつきにより、政争に敗れた人物の怨霊が疫病をもたらすという観念も生まれた。
・「追儺」という宮廷儀式が現代の節分の原型であり、疫鬼を追い払うことが本来の目的だった。
・「疱瘡神」という神格が生まれ、病そのものを祀るという独特の信仰形態が広まった。
・現代の民俗学・心理学の観点から見ると、「見えない病を可視化する」という人間の認知パターンが、鬼のイメージに反映されていると考えられる。
・感染症は「外から来る訪問者」として経験的に理解されており、その知恵が疱瘡神の「旅人の姿をしている」という伝承に反映されている可能性がある。
・コロナ禍のアマビエ信仰が示すように、見えない病への「物語による対処」は現代でも続いている。
現代の私たちが節分で鬼に豆を投げるとき、その行為の根っこには、1000年以上前に疫病と戦った人々の記憶がある。怖くて、どうしようもなくて、でも諦めずに儀式を続けた人々の、必死の祈りがある。
鬼が怖いのは、鬼が実在するからではないかもしれない。鬼を生み出すほどの恐怖が、かつて実際に存在したからこそ、今でも怖いのかもしれない。
赤い発疹に覆われた人々の顔。高熱でうなされる子供の声。なす術もなく家族を失っていく貴族の記録。その全てが、「鬼」という一語に凝縮されて、1000年以上後の私たちにまで届いている。
次に節分で「鬼は外」と叫ぶとき、少しだけ、その言葉の重みを思い出してほしい。あなたが追い払おうとしている「鬼」の正体が、どんな歴史を背負っているかを。
それを知ってもなお、あなたはその言葉を叫べるだろうか。