よう、シンヤだ。今夜はさ、あの絶海の監獄島から消えた3人の男たちの話をしようと思う。1962年、誰も成功したことがなかった脱出を試みた囚人たちがいた。で、その後どうなったか——いまだに誰にもわからないんだよ。

アルカトラズ島からの脱獄|1962年の謎の脱走劇

1962年6月11日の夜、アルカトラズ連邦刑務所で異変が起きた。翌朝の点呼で、3人の囚人がベッドに横たわったまま動かない。看守が近づいて布団をめくると、そこにあったのは石鹸と本物の髪を貼り付けて作った偽の頭部だった。フランク・モリス、ジョン・アングリン、クラレンス・アングリン——3人はすでに島のどこにもいなかった。

アルカトラズは「脱獄不可能」の異名を持つ監獄だった。サンフランシスコ湾の真ん中に浮かぶ岩の島。四方を冷たい潮流に囲まれ、まともに泳いで渡れる海ではない。それでも3人は手作りのゴムボートで、この海に漕ぎ出した。そして消えた。遺体も、生存の確かな証拠も、見つかっていない。

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アルカトラズ島とは何だったのか

「ザ・ロック」と呼ばれた孤島

アルカトラズ島は、サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフから約2.4キロの距離に浮かぶ小さな岩の島だ。面積はわずか9ヘクタール。現在では年間150万人以上が訪れる人気の観光スポットだが、かつてこの島は「ザ・ロック」の通称で恐れられていた。

もともとは南北戦争の時代に軍事要塞として使われ、その後は軍の監獄になった。1934年に連邦刑務所として生まれ変わり、全米で最も危険とされた囚人たちが送り込まれるようになる。アル・カポネ、マシンガン・ケリー、バードマンの異名で知られたロバート・ストラウド——凶悪犯やギャングのボスたちが、この島に集められた。

なぜアルカトラズが選ばれたのか。答えは単純だった。逃げ場がないからだ。本土までの海は水温が年間を通して10度前後。これは北太平洋から流れ込む寒流の影響で、真夏でもほとんど変わらない。人間の体はこの温度の水に20分も浸かっていれば急速に体温を奪われ、手足の感覚がなくなっていく。さらに潮流は太平洋とサンフランシスコ湾の間を激しく出入りし、泳ぎの達人でも制御できない横方向の力で体を持っていかれる。刑務所の壁を越えても、海が最後の看守として立ちはだかっていたわけだ。

刑務所の内部と日常

アルカトラズの収容能力は最大336名だったが、実際に収容されていた囚人は平均して260名ほどだった。独房はわずか1.5メートル×2.7メートルの空間で、ベッドと洗面台とトイレがすべてだ。窓からはサンフランシスコの街明かりが見えた。自由の象徴がすぐそこに見えるのに手が届かない——これが精神的に最もこたえたと、多くの元囚人が語っている。

食事は1日3回、質はそれなりに良かったと言われている。これは暴動を防ぐための施策だった。だが規律は極めて厳格で、囚人同士の会話すら制限される「沈黙の規則」が初期には存在した。反抗的な囚人は地下の懲罰房、通称「ザ・ホール」に送られた。真っ暗闘の独房で、食事はパンと水だけ。数日間をそこで過ごした囚人たちは、精神の均衡を保つために壁に向かって独り言を言い続けたという。

過去の脱獄未遂

1934年の開所から1962年の事件まで、アルカトラズからの脱獄を試みた囚人は36人いた。そのうち23人が即座に捕まり、6人が射殺され、2人が溺死した。残りの5人が「行方不明」——つまり遺体が見つからなかった者たちだ。だが公式には、成功した脱獄者はゼロとされてきた。

1946年には大規模な暴動が起き、囚人が看守から鍵を奪って武器庫を占拠しようとした。いわゆる「アルカトラズの戦い」だ。海兵隊まで出動する事態となり、囚人2人と看守1人が死亡した。脱獄ではなく暴動だったが、あの島がいかに追い詰められた場所だったかを物語っている。

1962年の脱獄事件が特別なのは、それが単なる衝動ではなく、極めて緻密に練られた計画だったからだ。そしてその計画を主導したのが、フランク・モリスという男だった。

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脱獄犯たちの素顔

フランク・モリス——天才的犯罪者

フランク・リー・モリスは1926年、ワシントンD.C.に生まれた。孤児として育ち、13歳で初めて犯罪に手を染めている。以後、窃盗、強盗、麻薬所持と犯罪を重ね、全米各地の刑務所を渡り歩いた。ルイジアナ州立刑務所、ジョージア州の連邦刑務所、フロリダ州の刑務所——そして何度か脱獄にも成功している。どこに入れても逃げる男。そういう評判がついてまわった。

モリスの知能指数は133とも言われている。これは上位2パーセントに入る数値だ。知能テストの信頼性はともかく、彼が並外れた問題解決能力を持っていたことは、脱獄計画そのものが証明している。アルカトラズに送られたのは1960年1月。他の刑務所で手に負えなくなった囚人が最終的に行き着く場所、それがアルカトラズだった。彼はここで1年以上かけて、誰もが不可能だと思っていた脱出計画を組み立てていく。

アングリン兄弟——農場育ちのタフな兄弟

ジョン・アングリンとクラレンス・アングリンは、ジョージア州の農家に生まれた14人兄弟のうちの2人だ。家族は季節労働者としてフロリダとジョージアを行き来しながら暮らしていた。貧しい暮らしの中で、兄弟たちは子供の頃から近くの湖で泳ぎを覚えた。水には慣れていた——これが後の脱獄計画で重要な意味を持つことになる。

2人は成人後に銀行強盗で逮捕され、アトランタの連邦刑務所に収容された。そこで脱獄を試みたのが運の尽きだった。懲罰としてアルカトラズに移送され、モリスと同じ独房棟に収容される。もともと腕っぷしが強く度胸もあった兄弟は、モリスの計画に加わる格好の仲間だった。

4人目の男——アレン・ウェスト

実はこの脱獄計画には4人目の共犯者がいた。アレン・クレイトン・ウェストだ。ウェストはモリスと同様に複数の脱獄歴があり、計画の初期段階から関わっていたとされる。レインコート製のボートを作るアイデアを出したのも彼だったという説がある。

しかし決行の夜、ウェストは換気口を塞いでいたグリルを外すことができなかった。削り方が不十分だったのか、焦りで手順を誤ったのか、真相は定かではない。彼が穴を抜けて屋上に出た時、すでに3人の姿はなかった。ウェストは独房に引き返し、翌朝、何食わぬ顔で点呼を受けた。そして捜査が始まると、自分が共犯者であることを打ち明け、計画の全容を捜査官に語った。

ウェストの証言がなければ、脱獄の手口はここまで詳細に判明しなかっただろう。皮肉なことに、逃げ損ねた男が事件のすべてを語ることになったのだ。

脱獄の手口

半年以上に及んだ準備

計画は半年以上前から始まっていた。モリスは知能指数133とも言われる頭脳の持ち主で、脱獄計画の中心にいた。3人は食堂で盗んだスプーンの柄に、掃除機のモーターを取り付けた即席ドリルを作り、毎晩少しずつ独房の換気口まわりのコンクリートを削った。音楽の演奏時間に合わせて作業することで、削る音をごまかしていたという。

壁に空けた穴は普段、段ボールと塗料で偽装した。換気口の奥には通風管が走っていて、そこを伝えば屋上まで出られる。屋上からパイプを使って地上に降り、海岸へ向かった。ボートは50枚以上のレインコートを接着剤で貼り合わせて作ったもので、空気を入れるためのコンサーティーナまで手作りしていた。どれだけの執念がこの計画に注がれていたか、想像するだけでぞっとする。

偽の頭部——独房の「替え玉」

脱獄計画で最も巧妙だったのが、偽の頭部の製作だ。石鹸、トイレットペーパー、コンクリートの粉を混ぜて紙粘土のようなものを作り、人間の頭部の形に成形した。そこに刑務所の理髪室から集めた本物の人毛を貼り付け、肌色の塗料で着色した。暗がりの独房で毛布から覗く程度なら、本物の頭に見えるようにできていた。

実際、夜間の巡回でこの偽の頭部は看守を欺き続けた。3人が消えてから翌朝7時の点呼まで、およそ8時間のアドバンテージを稼ぐことに成功している。8時間あれば、たとえ潮流が厳しくても、対岸のどこかにたどり着くには十分な時間だった。これが「生存説」を完全に否定できない大きな要因になっている。

通風管から屋上へ

独房の壁を抜けた先には、建物の構造上のデッドスペースがあった。通風管が走る狭いスペースだ。3人はそこにロープや道具を隠し、さらに屋上へ続くルートを確保していた。モリスは事前に刑務所内の構造を徹底的に調べていた。どの配管がどこに通じているか、屋上のどの部分に出れば監視カメラの死角になるか。刑務所の建物自体が古く、図面通りにはなっていない箇所もあった。それを利用した。

通風管を登る作業は体力的にも過酷だった。狭い管の中を垂直に登らなければならない場所もあり、ここで脱落すれば即座に発覚する。アレン・ウェストが結果的に取り残されたのも、この通風管へのアクセスに手間取ったことが原因だった。3人は決行の夜、予定の時間に来ないウェストを待たずに先に進む判断を下した。冷酷にも見えるが、一刻の遅れが全員の失敗を意味する状況では、合理的な判断だったのかもしれない。

レインコートのゴムボート

手作りのゴムボートは、この脱獄計画の中でも特に驚くべき工作物だった。刑務所で支給されるレインコートを50枚以上集め、接触セメントで接着して防水性のある生地を作った。レインコートの入手先は、他の囚人からの物々交換だったとされている。タバコや食事のデザートと引き換えに、目立たないようにコツコツと集めたのだ。

ボートの設計はポピュラーメカニクス誌に掲載されていた図面を参考にしたとも言われている。刑務所の図書室で雑誌を閲覧できたことが、計画に思わぬ貢献をしていた。空気を注入するための道具も、アコーディオン式のコンサーティーナを改造して作った。完成品のサイズは3人が乗れる程度の簡素なものだったはずだが、実物を見た者は捜査関係者以外にはいない。

決行の夜——1962年6月11日

その夜の天気は曇り。月は出ていなかった。水温は推定10度前後。潮流のデータによれば、午後11時頃から日付が変わる頃にかけて、潮の流れが比較的穏やかになるタイミングがあった。3人がこの時間帯を狙っていたのかどうかは分からないが、結果的にはベストに近いタイミングでの決行だった。

午後9時30分頃、3人は偽の頭部をベッドに置き、換気口から壁の中へ入った。通風管を登り、屋上に出る。屋上からは排水パイプを伝って地上に降り、島の北東側の海岸に向かった。ここでボートを膨らませ、海に漕ぎ出したとされる。目指した先は、対岸のマリン郡にあるエンジェルアイランド、あるいはその先の本土だった可能性がある。

看守が異変に気づいたのは翌朝7時の起床点呼の時だった。まずモリスの独房で偽の頭部が発見され、続いてアングリン兄弟の独房でも同じものが見つかった。刑務所は即座にロックダウンされ、大規模な捜索が始まった。だがすでに8時間以上が経過しており、3人の行方を追う手がかりはほとんど残されていなかった。

捜索とその後

史上最大規模の脱獄犯捜索

アルカトラズからの脱獄が判明した直後、FBI、沿岸警備隊、陸軍、そして地元の警察が一斉に動いた。ヘリコプターが湾上を旋回し、巡視艇が湾内をくまなく捜索した。サンフランシスコ湾の両岸では警官が海岸線を歩き、漂着物を探した。ゴールデンゲートブリッジの下から、バークレー方面の海岸まで、捜索範囲は広大だった。

脱獄翌日、エンジェルアイランド付近でレインコート製のライフジャケットの破片が発見された。また、手作りのパドルの一部と、防水処理された袋も見つかっている。袋の中にはアングリン兄弟の家族の写真と連絡先のメモが入っていたとされる。これが「溺死説」を支持する証拠として扱われた——船が転覆し、荷物が散乱した、と。

しかし逆の見方もできる。不要になった荷物を意図的に海に捨てた可能性だ。上陸後に身元を特定されるような物品をわざと処分した、と考えることもできなくはない。モリスの知能を考えれば、追跡を攪乱するための偽装工作として荷物を流した可能性も否定はできない。

遺体が見つからないという事実

サンフランシスコ湾で溺死した場合、遺体は通常1週間から10日ほどで浮上すると言われている。潮流の関係で外洋に流される可能性もあるが、湾内での溺死であれば発見される確率は低くない。しかし3人の遺体は一切見つかっていない。60年以上が経った今も、だ。

もちろん、遺体が太平洋に流されてサメに食われた可能性もある。ゴールデンゲート海峡の外に出れば、そこはもう外洋だ。遺体が見つからないこと自体は、溺死を否定する決定的な証拠にはならない。だが、肯定する証拠にもならない。ここに、この事件が「未解決」であり続ける核心がある。

生存の可能性

FBIの公式見解

FBIは17年間の捜査を経て、1979年にひとつの結論を出した。「3人は湾内で溺死した可能性が最も高い」。根拠は明快だった。サンフランシスコ湾の水温は約10℃。人間がこの水温に長時間さらされれば低体温症で意識を失う。加えて、ゴールデンゲート海峡に向かう潮流は強烈で、脱獄が行われた時間帯はちょうど引き潮だった。粗末なゴムボートで制御できる流れではない。

実際、脱獄翌日にはアングリン兄弟のものとみられるレインコート製のライフジャケットが対岸方面で漂流しているのが発見されている。3人が使った道具の残骸も島内で見つかったが、本人たちの痕跡はそこで途絶えた。

生存を示唆する手がかり

ところが話はここで終わらない。2013年、サンフランシスコ警察にある手紙が届いた。差出人はジョン・アングリンを名乗る人物。文面にはこう書かれていた——「私の名前はジョン・アングリン。1962年にアルカトラズからフランク・モリス、弟と一緒に脱獄した。私たちは成功した」。手紙にはさらに、自分が83歳でガンを患っていること、医療と引き換えに出頭してもいいと書かれていたという。

筆跡鑑定の結果は割れた。一部の専門家はジョン本人の筆跡と一致すると主張し、別の専門家はそうではないと結論づけた。決定打にはならなかった。ただ、アングリン家の親族は以前から「兄弟は生きている」と話しており、脱獄後にブラジルで撮影されたとされる2人の写真も存在する。写真の真偽も確認されていないが、家族は本人だと信じている。

ブラジルの写真の謎

2015年頃、アングリン家の親族が公開した1枚の写真が大きな話題になった。1975年頃にブラジルで撮影されたとされるもので、2人の白人男性が並んで立っている。家族はこれがジョンとクラレンスだと主張した。写真の男性たちは年齢的にも合致しており、顔の特徴にも共通点がある——少なくとも家族にはそう見えた。

専門家による顔認証分析も行われたが、結果は決定的ではなかった。写真の画質が低く、撮影から数十年が経過していたため、技術的な限界があった。しかしこの写真の存在は、少なくともアングリン家の人々が1960年代以降も兄弟と何らかの接触を持っていた可能性を示唆している。

アングリン家の母親は1973年に亡くなるまで、毎年クリスマスに差出人不明の花が届いていたと語っていたという。また、家族の集まりに「見知らぬ背の高い2人の男」が現れ、すぐに去っていったという目撃証言もある。どれも確証はないが、物語として出来すぎているとも言い切れない不思議なリアリティがある。

潮流シミュレーションが覆した「常識」

2015年、アメリカの歴史番組が潮流シミュレーションを行い、脱獄当夜の条件下で適切なタイミングに出発していれば、マリン郡の海岸にたどり着くことは不可能ではなかったと結論づけた。つまり「溺死した」という前提そのものが、絶対ではなかったということだ。

このシミュレーションはオランダのデルフト工科大学の研究者たちが協力して行ったもので、1962年6月11日から12日にかけての実際の潮流データ、風向き、水温を入力し、複数の出発時刻と出発地点からの漂流パターンを計算した。結果、午後11時30分から真夜中の間に島の北東端から出発した場合、マリン郡のホースシュー湾付近に漂着する可能性が最も高いことが示された。

ただし条件は厳しかった。出発のタイミングが30分ずれるだけで、ゴールデンゲート海峡の外に押し流されるルートに入ってしまう。つまり「不可能ではないが、極めて狭い窓」だったということだ。モリスがこの潮流のタイミングを事前に把握していたかどうか。もし把握していたとすれば、彼の計画力は尋常ではなかったことになる。

USマーシャルの捜査は続く

FBIが1979年に捜査を終了した後、事件の管轄はUSマーシャル(連邦保安官局)に移された。USマーシャルは逃亡犯の追跡を専門とする機関であり、時効の概念がない。つまり、3人が生きている限り——たとえ100歳を超えていたとしても——捜査は公式に継続している。

USマーシャルのマイケル・ダイク捜査官は、2014年のインタビューでこう語っている。「彼らが脱出に成功した可能性を私は排除していません。私たちは今もすべての手がかりを追っています」。この発言は、連邦の法執行機関が「溺死した」というFBIの結論に必ずしも同意していないことを意味していた。

実際、USマーシャルはアングリン家の親族への聞き取りを続け、ブラジルやその他の南米諸国での足取りも調査した。DNA鑑定技術の進歩により、もし遺体や遺留品が見つかれば、確実に身元を特定できる体制も整えられている。だが今のところ、決定的な証拠は見つかっていない。

アルカトラズ脱獄が残したもの

刑務所の閉鎖

この脱獄事件は、アルカトラズ連邦刑務所の閉鎖を早める一因となった。事件からわずか9ヶ月後の1963年3月、刑務所は正式に閉鎖される。公式な閉鎖理由は「維持費の高騰」だった。海水による建物の腐食が激しく、本土から物資を運ぶコストも莫大だった。囚人1人あたりの収容コストは、本土の刑務所の3倍にのぼっていたとされる。

だが、脱獄事件が「脱獄不可能」という神話を崩壊させたことが、閉鎖の判断に影響しなかったとは考えにくい。看守たちの士気にも影響があったし、議会からも「これだけのコストをかけて、なぜ脱獄を防げなかったのか」という追及があった。アルカトラズは、その存在意義の根幹を揺るがされたのだ。

映画「アルカトラズからの脱出」

1979年、クリント・イーストウッド主演の映画「アルカトラズからの脱出」が公開された。この映画はモリスたちの脱獄を比較的忠実に再現しており、偽の頭部を作る場面や通風管を登る場面は、実際の手口に基づいている。映画では3人が無事に対岸にたどり着いたことを暗示するエンディングになっており、これが一般の人々に「生存説」を広める大きなきっかけとなった。

映画の影響は大きかった。アルカトラズ島が国立公園局の管理下で一般公開されるようになると、脱獄のルートを辿るツアーは最も人気のあるプログラムとなった。独房に展示された偽の頭部のレプリカの前で、観光客たちは写真を撮り、信じられないという顔をする。あの狭い独房から、あの冷たい海へ。なぜそこまでして逃げようとしたのか。自由というものが人間にとってどれほどの意味を持つのか——そのことを、この場所は否応なく突きつけてくる。

なぜこの事件は人々を惹きつけるのか

アルカトラズ脱獄事件が60年以上経った今も語り継がれるのには理由がある。それは単なる犯罪事件ではなく、人間の知恵と意志の物語だからだ。

スプーンの柄で壁を削り、レインコートでボートを作る。看守の目を盗み、音楽の時間に合わせて作業する。偽の頭部を置いて時間を稼ぐ。そこには暴力も銃撃戦もない。あるのは知恵と忍耐と、途方もない執念だけだ。犯罪者であることは間違いないのに、どこか「応援したくなる」気持ちを抱かせてしまう。それがこの事件の不思議な魅力だと思う。

そして最大の引力は、結末が分からないことだ。映画なら必ず答えが用意されている。だが現実の物語には、答えがないまま終わるものがある。3人は生きたのか、死んだのか。その問いに対する答えは、おそらく永遠に出ないのかもしれない。だからこそ、人は想像する。冷たい海を漕ぎ渡り、対岸の闇に消えていった3つの影の行方を。

残された問い

結局のところ、誰も確かなことは言えない。3人が冷たい海の底に沈んだのか、どこかの国で別人として生き延びたのか。FBIの捜査ファイルは閉じられたが、USマーシャル(連邦保安官局)は今も正式にはこの事件を「未解決」として扱っている。アルカトラズから消えた3人の男たちの物語は、答えがないまま60年以上の時を重ねている。

もし彼らが生きていたとすれば、フランク・モリスは2026年の今年で100歳、ジョン・アングリンは96歳、クラレンス・アングリンは95歳になる。もう生存している可能性は極めて低いだろう。だがそれでも、USマーシャルは捜査を閉じていない。法の上では、彼らはまだ逃亡中の囚人だ。

あの夜、サンフランシスコ湾の黒い水面に漕ぎ出した粗末なゴムボート。その先に待っていたものが自由だったのか、それとも冷たい終わりだったのか。それを知っているのは、3人の男たちだけだ。

生きて岸にたどり着いたのか、それとも冷たい海に飲まれたのか。あの手紙が本物だったとしたら、80過ぎの爺さんが病院のベッドで「俺はアルカトラズから逃げた男だ」って笑ってたかもしれないわけだ。答えが出ないからこそ、ずっと引っかかる話だよな。じゃ、また次の夜に。シンヤでした。

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