よう、シンヤだ。今夜はちょっと変わった切り口でいくよ。病院に行っても誰も説明してくれない、医学書のどこにも載ってない症状ってやつ。なんで正式な記録に残らない病が語り継がれるのか、その裏側を掘ってみようと思う。

医学書に載らない病気の症状|医学知識の非対称性と患者の不安

インターネットの掲示板やSNSには、医学書に記載されていない不思議な症状を訴える人たちが一定数いる。「医者に見せても『異常なし』と言われるのに、確かに体調が悪い」——そんな経験に覚えがある人もいるのではないだろうか。これは気のせいなんかではない。医学的な知見の限界と、患者自身の身体感覚が噛み合わない場所に、独特の不安と物語が生まれてくる。

この記事では、医学書の「空白地帯」がなぜ生まれるのか、そこに人々がどんな物語を投影してきたのか、そして実際のところ体の不調とどう向き合えばいいのかを、できるだけ多角的に掘り下げていく。

医学書の「空白」が生む不安

現代医学はたしかに発展してきた。ただ、医学書に記載されているのは統計的に有意な症状や、診断しやすい疾患が中心だ。症例数が少なかったり、検査値にはっきり出なかったりする症状は、医学書の中でも記述が曖昧になりがちで、結果として「空白」のような領域が残る。そこに、検査では拾いきれなかった患者たちの経験が流れ込んでいく。

ネット上で「医学書に載らない症状」として語られるものには、たとえばこんなものがある。

  • 常に続く微熱感(検査では正常範囲内)
  • 説明のつかない倦怠感や疲労
  • 複数の科を回ってもわからない頭痛
  • 食事後に限定された不定愁訴
  • 季節や気象条件で変動する身体不調
  • 夜中の特定の時間帯にだけ起こる動悸
  • 特定の場所や環境にいるときだけ悪化する体の痛み

どれも、経験している本人にとっては紛れもなくリアルな症状だ。ところが医者の側から見ると、検査値は正常、画像にも異常なし。「異常ありません」と伝えるしかない。この食い違いが、都市伝説的な「謎の病気」を生む土壌になっている。

歴史の中の「名前のない病」

医学書に載らない症状が語り継がれるのは、実はインターネット時代に始まった話ではない。歴史を遡れば、いつの時代にも「正式な医学では説明できない不調」に悩む人々がいた。

たとえば、19世紀のヨーロッパでは「ヒステリー」という診断名が広く使われていた。今の基準で見れば、そこに分類されていた症状は実に雑多だ。原因不明の麻痺、突然の失声、説明のつかない痛み——それらを一括りにして「ヒステリー」と呼んでいた。つまり当時の医学にとっても、説明しきれない症状の受け皿が必要だったということだ。

日本にも似たような歴史がある。江戸時代の民間療法には「狐憑き」や「気の病」といった概念があった。現代的な視点から見れば、それらの多くは心身症や自律神経系の不調だった可能性が高い。しかし当時の人々にとっては、「狐が憑いた」という説明のほうが、得体の知れない体調不良よりもはるかに理解しやすかったのだろう。原因がわかれば対処もできる。たとえその原因が科学的に正しくなくても、「わからない」という状態から脱出できるだけで、人間の不安はかなり軽減される。

明治期に西洋医学が本格導入されてからも、この構図は根本的には変わっていない。医学が進歩すればするほど、「説明できるもの」と「まだ説明できないもの」の境界線がはっきりする。そして境界線の外側に取り残された症状は、時代ごとの文化的な枠組みで解釈されてきた。狐憑きから、ノイローゼへ、そして現代のネット上の「謎の病気」へ。器が変わっただけで、中身はずっと同じなのかもしれない。

医学知識の非対称性が生まれさせる物語

インターネットが普及する前、こうした不可解な症状に直面した人は、基本的に医者の診断を受け入れるしかなかった。選択肢がなかったのだ。ところが今は、検索すれば自分と同じような症状を持つ人の投稿がすぐに見つかる。「自分だけじゃなかった」という発見は、孤独な患者にとって大きな救いになる。

ただ、ここに別の問題も潜んでいる。医学知識を持つ側と持たない側の「非対称性」だ。医者は検査値という客観的なデータをもとに判断する。一方、患者にとっての証拠は自分自身の身体感覚だ。この二つの「証拠」が違う結論を指し示すとき、一部の患者は医学そのものへの不信感を抱くようになる。そして「医学書には書かれていない、まだ名前のついていない病気があるんじゃないか」という仮説が、じわじわと広がっていく。

この非対称性は、単に知識量の差だけでは説明しきれない。医者にとって患者は「多くの症例のひとつ」だが、患者にとって自分の体は「唯一無二のもの」だ。統計的には正常範囲でも、自分の体が明らかにおかしいと感じている人にとって、「統計的に正常です」という言葉は何の慰めにもならない。この感覚のズレが、医療不信の芽になることがある。

ネット上で広がる「名前のない症候群」たち

実際にインターネット上で共有されている「医学書に載らない」とされる症状をいくつか見てみよう。もちろん、これらに医学的な裏付けがあるかどうかは別の話だが、多くの人が共感し、語り合っているという事実そのものが興味深い。

ひとつめは、いわゆる「天気痛」だ。気圧の変動に合わせて頭痛や関節痛が起こるという訴えは昔からあった。近年になってようやく研究が進み、内耳の気圧センサーとの関連が指摘されるようになったが、長い間「気のせい」扱いされてきた領域だ。今でも「天気痛」を正式な診断名として認めていない医師は少なくない。

ふたつめは「ブレインフォグ」と呼ばれる状態。頭にもやがかかったように集中できない、言葉が出てこない、記憶が曖昧になる——こうした症状を訴える人は以前からいたが、新型コロナウイルスの後遺症として広く知られるようになった。検査値には現れにくいが、当事者にとっては日常生活に支障をきたすほど深刻な問題だ。

みっつめは「化学物質過敏症」。微量の化学物質に反応して頭痛や吐き気、倦怠感を覚えるという症状だが、その存在自体をめぐって医学界でも議論が続いている。患者の苦しみは本物なのに、メカニズムが十分に解明されていないために、周囲から理解を得られず孤立してしまうケースが多い。

こうした症状に共通しているのは、「検査で数値化しにくい」という点だ。血液検査やMRIで異常が見つからない。だから「医学的には問題ない」と言われる。しかし、問題がないのではなく、現在の検査技術ではまだ捕捉できていないだけかもしれない。この「まだ」の部分に、不安と期待が入り混じった物語が生まれるのだ。

「謎の体調不良」の実態

医学的な観点から見ると、こうした症状の多くは既存の枠組みの中にも居場所がある。検査では異常が見つからない機能性疾患もあれば、心理的ストレスが身体の症状として表出する心身症もある。統計的に有意ではないが確かに正常とも言い切れない「閾値ぎりぎり」の状態や、体質による自然な変動もこの範疇に入る。

つまり、医学書に「載っていない」というよりも、医学の複雑さと個人差の幅の中に「埋もれている」と言ったほうが正確だろう。同じ倦怠感でも、Aさんの原因とBさんの原因がまったく違うことはざらにある。ひとつの症状名に回収できないからこそ、医学書の整然とした分類の外に弾き出されてしまうのだ。

ここで重要なのは、「医学書に載っていない=存在しない」ではないということだ。医学の歴史を振り返れば、かつて「存在しない」とされていた病気が後に正式に認められた例はいくらでもある。線維筋痛症がその典型だろう。全身の慢性的な痛みを訴える患者は昔からいたが、検査で客観的な異常が見つからないために長らく「心因性」とされてきた。現在では独立した疾患として認知され、治療ガイドラインも整備されている。

慢性疲労症候群もまた、同じ道をたどった。極度の疲労感が6ヶ月以上続くにもかかわらず、血液検査でも画像検査でも異常が出ない。「怠けているだけだ」と言われ続けた患者たちが、何十年もかけてこの病気の存在を社会に認めさせてきた。今なお完全には解明されていないが、少なくとも「気のせい」ではないことは広く受け入れられるようになった。

自律神経という「見えにくい」システム

医学書に載りにくい症状の多くが、自律神経系と関わっていることは注目に値する。自律神経は体温調節、消化、心拍、発汗など、意識しなくても体が勝手に行っている機能を司っている。このシステムのバランスが崩れると、実にさまざまな症状が出る。しかし、自律神経の乱れは通常の血液検査やレントゲンでは見えない。

朝起きられない、立ちくらみがする、食後に異常に眠くなる、夕方になると微熱が出る——こうした訴えの背景に自律神経の問題が隠れていることは珍しくない。しかし、自律神経の検査は専門的な施設でしか行えないことが多く、一般的な内科の診察では「異常なし」と判断されてしまう。

特に起立性調節障害は、思春期の子どもに多いとされているが、大人にも起こりうる。朝どうしても起きられない、午前中はまったく頭が働かない、でも夜になると元気になる。学校や会社に行けなくなって初めて医療機関を受診するが、一般的な検査では何も引っかからない。「サボりだ」「甘えだ」と周囲に言われ、本人はますます追い詰められていく。

自律神経の問題は、ストレス、睡眠不足、季節の変わり目、ホルモンバランスの変動など、複数の要因が絡み合って発症することが多い。ひとつの原因を特定しにくいからこそ、医学書の中で明確な位置づけを得にくいのだ。

患者と医者のコミュニケーションの課題

ここで見落とせないのが、患者と医療者の間のコミュニケーションの問題だ。医者が「異常なし」と告げた時点で対話が終わってしまえば、患者の不安はどこにも行き場がなくなる。検査には出ない、でも症状は確かにある——この状態をどう理解し、どう付き合っていくのかまで踏み込んだ説明があれば、少なくとも「自分はおかしいのか」という不安の連鎖は断ち切れるはずだ。

実際のところ、ネット上で「医学書に載らない病気」を検索すると、医学的根拠の薄い情報が大量にヒットする。それらは不安を一時的に「説明」してくれるかもしれないが、症状の改善にはつながらないことがほとんどだ。患者の身体感覚と、医療者の持つ専門知識。このふたつが対等にやりとりされる場をどうつくるかが、この問題の本質的な論点だろう。

医療コミュニケーションの研究では、「ナラティブ・ベースド・メディスン(物語に基づく医療)」という考え方が注目されている。これは、検査データだけでなく、患者が語る物語——いつからどんな状況で症状が出るのか、それによって生活がどう変わったのか、何が一番つらいのか——を診療の中で重視するアプローチだ。

従来の「エビデンス・ベースド・メディスン(根拠に基づく医療)」が検査値やガイドラインを軸にするのに対して、ナラティブ・ベースド・メディスンは患者の主観的な経験を医療の中に正式に位置づけようとする。これは決してエビデンスを軽視するものではなく、エビデンスだけでは掬いきれない部分を補完する試みだ。

たとえば、「毎週水曜日の午後になると頭痛がする」という訴えがあったとする。検査値からはこの規則性の理由は見えない。しかし、患者の生活の物語を聞いていくと、水曜日に特定のストレス要因があることがわかるかもしれない。あるいは、火曜夜の習慣が翌日の体調に影響しているのかもしれない。数値では見えなかったつながりが、物語を通じて浮かび上がることがある。

「ドクターショッピング」の心理

「異常なし」と言われ続けた患者の中には、次々と別の医療機関を受診する、いわゆる「ドクターショッピング」に陥る人もいる。これは単なるわがままではない。自分の苦しみを正当に認めてもらいたいという、切実な欲求の表れだ。

ある医師に「異常なし」と言われた。でも症状は消えない。だったら、もっと腕のいい医者なら見つけてくれるかもしれない。あるいは、別の検査をすれば何か出るかもしれない。こうして病院を転々とする間に、時間もお金も消耗していく。そして最終的にたどり着くのが、ネット上の「医学書に載らない病気」というフレーズだったりする。

ドクターショッピングの問題は、患者にとっても医療システムにとっても非効率だということだ。何度も同じような検査を受け、そのたびに「異常なし」と言われ、不信感だけが蓄積される。かといって、最初の医師が「検査では異常がありませんが、あなたの症状は確かに存在します。一緒に原因を探しましょう」と言ってくれていたら、その後の展開は違っていたかもしれない。

重要なのは、患者の訴えを「検査値に現れないから存在しない」と切り捨てないことだ。同時に、患者の側も「医者が無能だから見つけられないのだ」と決めつけないことだ。医学には確かに限界がある。しかしその限界は、怠慢によるものではなく、人間の体の複雑さに由来するものだ。

SNS時代の「共感」と「確証バイアス」

SNSの普及は、原因不明の症状に悩む人々に「仲間」を与えた。Twitterのハッシュタグやredditのサブフォーラム、日本では5ちゃんねるの特定スレッドなどに、同じような症状を持つ人が集まり、情報を交換している。この連帯感は間違いなく、当事者にとっての心の支えになっている。

しかし同時に、そこには確証バイアスの罠もある。自分と同じ症状の投稿ばかりを目にしていると、「やはりこれは特定の病気に違いない」という確信が強化されていく。医学的に否定された仮説であっても、コミュニティ内で繰り返し語られることで、あたかも確立された事実のように扱われるようになる。

たとえば、ある特定の食品添加物が原因だという説がコミュニティ内で広まったとする。実際にその添加物を避けたら症状が改善したという報告が次々に上がる。しかし、それがプラセボ効果なのか、添加物を避けることで食生活全体が改善された結果なのか、あるいは単なる自然経過なのかは、個人の体験談だけでは判断できない。にもかかわらず、コミュニティ内では「これが原因だった」という物語が定着していく。

これは悪意の問題ではなく、人間の認知の仕組みの問題だ。不確実な状態に耐えるのは心理的にコストがかかる。だからこそ、たとえ科学的に完全でなくても、「これが原因だ」という説明を受け入れたくなる。都市伝説が生き延びるのと同じメカニズムが、ここでも働いている。

代替医療との微妙な関係

医学書に載らない症状を抱えた人が、最終的に代替医療にたどり着くのはよくある話だ。鍼灸、漢方、整体、アロマセラピー、ホメオパシー——選択肢は多岐にわたる。これらの中には、実際に症状を緩和するものもあれば、科学的根拠が極めて乏しいものもある。

注意すべきは、「正規の医療で見放された」という感覚が、代替医療への入口になりやすいという点だ。医師に「異常なし」と言われた経験は、「正規の医療は自分には役に立たない」という認識につながりやすい。そこに「あなたの症状には名前があります」「原因はこれです」と断言してくれる代替医療の施術者が現れれば、藁にもすがる思いで頼りたくなるのは自然な心理だ。

もちろん、代替医療の全てが怪しいわけではない。漢方薬は日本の医療保険で認められているものも多いし、鍼灸にはWHOが有効性を認めている適応症もある。問題は、代替医療の中に、科学的根拠がないにもかかわらず高額な料金を請求したり、正規の医療を全否定したりする悪質なものが混じっていることだ。

医学書に載らない症状を抱える人にとって大切なのは、正規の医療と代替療法を「どちらか一方」の問題にしないことだろう。正規の医療で経過を見てもらいながら、補完的に他のアプローチを試す。その際、何をいつから始めて、症状がどう変化したかを記録しておく。この地道な作業が、自分の体と向き合う最も現実的な方法だと思う。

医学の進歩が追いつく日

かつて「医学書に載らない」とされていた症状が、研究の進展によって正式に認められるようになった例は少なくない。先に挙げた線維筋痛症や慢性疲労症候群に加えて、過敏性腸症候群もかつては「精神的なもの」として片づけられがちだった。現在では腸内細菌叢との関連や、脳腸相関のメカニズムが解明されつつあり、治療の選択肢も広がっている。

片頭痛にしても、かつては「たかが頭痛」と軽視されることが多かった。しかし、CGRPという神経ペプチドの関与が明らかになり、それをターゲットにした新薬が開発されたことで、片頭痛治療は大きく前進した。「たかが頭痛」が、実は複雑な神経学的メカニズムに基づく疾患だったのだ。

こうした例を見ると、現在「医学書に載らない」とされている症状の中にも、将来的に解明されるものがあると考えるのは合理的だ。医学は常に「今わかっていること」の集積であり、「まだわかっていないこと」が膨大に残されている。今日の「空白」が、10年後には教科書の1ページになっているかもしれない。

ただし、「いつか解明される」という希望だけでは、今つらい人の助けにはならない。大事なのは、現時点でできることを着実にやることだ。症状の記録をつける、信頼できる医師を見つける、生活習慣を見直す、ストレスの要因を減らす。地味だが、これらの積み重ねが結果的に症状の改善につながることは多い。

「異常なし」の先にある対話

医療の現場で最も難しいのは、「異常なし」という結果を伝えたあとの対話かもしれない。患者は不安を抱えて来院している。「異常なし」は本来なら安心材料のはずだが、症状が続いている限り、それは安心ではなく「見捨てられた」という感覚に変わりうる。

いくつかの医療機関では、こうした患者に対して「症状外来」や「総合診療科」を設けて、複数の専門領域にまたがる症状を横断的に診る試みが始まっている。ひとつの科では「異常なし」でも、生活全体を見渡せば何かヒントが見つかることがある。

患者の側にもできることはある。自分の症状を時系列で記録しておくことだ。いつ、どんな状況で、どの程度の症状が出たのか。何を食べたか、どのくらい眠れたか、天気はどうだったか。こうした記録は、医師にとって非常に貴重な情報源になる。検査値には現れない手がかりが、日常の記録の中に隠れていることは珍しくない。

症状日記をつけるのは面倒だと感じるかもしれない。しかし、1日1分でもいい。スマホのメモ帳に「今日の体調」を一行書くだけでも、1ヶ月も続ければパターンが見えてくることがある。自分の体は自分が一番よく知っている——これは必ずしも正しくないが、自分の体を一番長く観察できるのが自分であることは間違いない。

現場感のある「医学書の空白」への向き合い方

医学書に載らない症状は、医学知識の辺縁部分に存在する。珍しいようでいて、実は誰でも少なからず経験しうるものだ。それが都市伝説のように語り継がれるのは、不確実さを前にしたとき、人間はどうしても物語をつくって埋めたくなるからだろう。わからないまま放置しておくのは、思っている以上にしんどい。

ただ、そうした不安や疑問を抱くこと自体は何もおかしくない。むしろ問われるべきは、そこからどうやって回復へ向かうか、という道筋のほうだ。医学書に完全に説明される病気だけが「本当の病気」ではない。説明しきれない部分を切り捨てるのではなく、それも含めて人間の健康を考える——そういう視点が、いま少しずつ求められている。

医学の歴史は、「わからなかったことがわかるようになる」歴史でもある。今はまだ空白のままの領域が、いつか埋められる日が来るかもしれない。その日まで、自分の体と静かに対話を続けること。不安を物語で上書きするのではなく、事実を少しずつ積み上げていくこと。それが「医学書に載らない症状」と付き合うための、最も誠実なやり方だと思う。

知らないことへの不安が、物語を生むってのは人間らしい話だよな。医学が全部を説明できるわけじゃないけど、だからって諦める必要もない。わからないことと付き合う力ってのも、生きていくうえでは大事なスキルなのかもしれない。シンヤでした。じゃ、また夜更かしの続きで会おう。

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